泥の底
私は東日本大震災のボランティアだった。「です。」と言い切りたいところだが、今は自身の病気が進行してしまい、胸を張って現在進行形を用いることはできない。
震災後、私は、一人で活動したり、知人を頼ったり、仲間と行動したり、また東北へ足を運んだり、地元の施設で応援物販をしたり、東北から人をお招きして語り部の会を催したり等々と、形も内容も様々に活動してきた。その中でずっと、私は悩み、落ち込み、自分を責め、よろけながらまた立ち上がり、ひとり七転八倒し続けてきた訳だが、その苦しみの中心にいつも在り続けていたのは間違いなく、「私は本当に役に立てているのだろうか」「正しいことをしているのだろうか」という問いであり煩悶だった。私は長い時間、その向こう側が見えないほど太く聳え立ち心のど真ん中から動かない柱の周りを、グルグル、グルグルと、回っているようなものだった。
中でも、私の気持ちの奥に曲がった小さい棘が刺さったまま、今でも思い出すのが苦しいことがある。それは、<ボラボラ>という、一つのあり様についてだ。<ボラボラ>は一般的な言葉ではないかもしれない。私が最初にそれに触れたのは、初めて東北の沿岸部へボランティアに行ったときのことだった。
震災の年、私が仲間たちと共に向かったのは、津波による甚大な被害を受けた東北沿岸部の町だった。そこには世界中から大勢のボランティアたちが集まり、泥カキや家屋の片付け、避難所での炊き出し、支援物資の整理や配送など、献身的に作業をしていた。被害の少なかった隣町の、山合に建つ小学校の体育館がボランティアたちの拠点になっていて、NPOが運営していた。ボランティアたちは、毎朝開かれるミーテングでNPOの担当者から役割分担の指示を受け、それぞれ持ち場へ向かい、一日作業をして、夕方にはまた体育館に戻ってきた。食事をし、寝袋へ入り、朝になるとミーテングに参加して、またそれぞれの作業場所へと散っていく。私もそのNPOの指示の下で作業を行う、ボランティアの一人だった。
その拠点では体育館横の一室が調理場となっていて、そこでは調理を担当するボランティアの男性が、作業でお腹を空かせた大勢のボランティアたちの胃袋を満たすため、大量の食事を作っていた。食事の時間になると、それぞれが持参したアルミ製の食器やタッパーウェアなどを手に行列するボランティアたちの前に、山盛りのごはんや惣菜が次々と置かれていった。いったいこの体育館だけで何十人(いや100人以上か?)のボランティアがいるのだろう。よくこれだけの人数分を、味も量も適切に作れるものだ。朝5時くらいに目が覚めて、散歩がてら体育館の外に出てみると、男性はもう、高く積まれた野菜や大きな鍋たちを前に朝食の仕込み作業を始めようとしていた。
聞けば、その男性も自分の時間を割いて遠方からボランティアに来ているそうで、地元では普段、調理の仕事を本職にしているという。NPOの担当者からはボランティア拠点における調理を任され、本人も、自分の適性が最も生かされるのは調理の仕事だろうと、ボランティアのための食事を作り続けているという。支援活動を裏で支える、ボランティアのためのボランティア、<ボラボラ>だ。
人から聞いた話だが、彼自身も他のボランティアたちと同様、自分の仕事を長期間休み、支援活動を行うため遠くからやって来たとのことだった。いつもその体育館にいて調理をしているので、東北へ来ている間も、新聞やニュース映像などに毎日取り上げられるような“被災地”に、彼が直接触れることは殆ど無かったらしい。長い活動の合間に彼が地元に帰ると、彼は家族や友人たちから口々に「被災地はどうだった?」と尋ねられた。いつも体育館にいて“被災地”を殆ど見たことのない彼が返答に困って「あまりよくわからない」と言うと、尋ねた方は「ボランティアに行っていたのに、何故わからないのか」とガッカリした顔をするらしかった。そして彼は再び地元を離れ、この体育館に戻り、また黙々と大量の食事を作るのだった。
ボランティアとしての彼の作業は、非常に重要なものだ。彼のような人が、そのNPOを頼って日本中、世界中から集まってくるボランティア一人ひとりの胃袋を支えてくれるおかげで、ボランティアたちは皆、それぞれの持ち場で思う存分に力を発揮することができる。
彼は自分の適性を熟知し、<ボラボラ>としての自分の役割を冷静に全うしようとしていた。だが、彼のいたボランティアの現場を知らない、遠く地元の人たちに対して、彼のボランティアとしての仕事の重要性を説明するのは容易ではなかっただろう。彼の知人らは自覚の無いままに、メディアで触れた“ボランティア”の姿を、当然のように彼に重ねた。あの現場にいたという人間の肉声にしか感じられないはずの臨場感や躍動感が、自分たちの想像を裏付け湧き出る感情の“正しさ”を保証してくれるはずの言葉が、何かいきいきとした目新しい情報が、当然のように自分たちに与えられるものと期待して彼に対峙し、その声を待った。そして、それが手に入らないとわかると大いに失望し、自分たちの身勝手な期待を裏切った彼を恨み、それを隠さないほどに人びとは残酷だった。私は、調理担当である彼の心の内を想像しながら、それでもまた体育館に戻ってきて、淡々と、大きな鍋いっぱいのご飯を炊く彼を、尊敬した。
***
私は後に、ボランティアとしてのさまざまな活動において、この<ボラボラ>的な立場になることが多くなっていった。それは意図したものではなかったが、私はその立場に徹することの難しさに、悩み、苦しんだ。
ボランティアであるならば、一人ひとりが自立して、活動における自分なりの理念を腹の底にしっかりと据え、常に己に厳しい目を心の隅に用意しながら誠実に活動に取り組むべきだと、私は思っていた。私が関わっていた活動のいくつかは次第にその規模を大きくし、私はますます裏方的な仕事を多く担うようになって、ボランティア仲間に対するフォローや仲間内への配慮に時間と気持ちを取られることが多くなっていった。
私は一部の仲間たちに苛立ちを感じ始めていた。裏方としての私の動きを横目に知りながら、その成果を、まるで権利か何かのように、当然自分たちに与えられるべきものとしてためらいもなく受け取り、無邪気にボランティアである自分たちを称え合い、心から楽しんでいるような仲間の存在が、とても不愉快だった。ボランティアを自負しながら、仲間同士互いに支え合って活動が成り立っていることへの想像力を放り捨て、表舞台の、やりたい作業だけを選んで参加する。ボランティアである自分たちへの内省的な態度や、信じ込んでいる「正しさ」への疑念のかけらもない。私は、一部の仲間たちに感じてしまっていた、鈍感さを、傲慢さを、屈託のなさを、怠惰を、許すことができずにいた。ある時などは明確に、数人の仲間たちに対する私の態度は硬化した。周囲がそんな私のことを「仕事を抱え込んでばかりで周りの人間に振ろうとしない、要領が悪くて頭の固いやつ」と、ある意味正確に理解していたのは明白で、そうなるともう私はどこにも居場所がなく、一人勝手に、ブクブクと泥の底深く沈んでいった。
こんなに近くにいる、同じボランティア仲間への想像力すら持てない人間が、どうして遥か遠く、東北沿岸の地に暮らす人たちへの想像力を抱けるというのだろう。私は時に、そうした一部の仲間たちから裏方としての段取りの悪さや準備不足などを指摘されたりもして、そんなときはもう頭が破裂しそうなばかりに苛立った。体育館で<ボラボラ>の彼が出す食事に対し平気で不満を口にし、彼の気持ちどころか存在すら想像しないのと同じ罪だと思った。<ボラボラ>の彼であったら、そんな仲間たちにも笑顔で食事を作り続けたのだろうか?
時を変え、場所を変えて、私は同じような思いを大なり小なり繰り返している。きっとどこへ行っても私は相当な少数者であり、大多数の人間からすれば、訳の分からないことでいちいち苛立ってばかりいる、偏屈をこじらせた変わり者といった印象なのだと思う。他者へ向けたはずのまなざしの先にはいつも確かに私自身がいて、天に唾してわが身も傷付き、いつも頭を抱えている。なにも保険をかけようというわけではないが、きっと今この瞬間も、この文章を読み心から共感を寄せるという人は決して多くはないはずで、闇に吸い込まれ微塵も反響しない私の声は、もうすぐ出なくなる予定だ。
そして、私の“硬さ”は今でも変わっておらず、私はその“硬さ”こそ自分の本質なのだろうと、こうして動きの悪い手で文章に書いている。
私が生きていた証として。
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