『サラメシ』
『サラメシ』というNHKのテレビ番組をご存じだろうか。
キャッチコピーは「ランチをのぞけば 人生が見えてくる 働くオトナの昼ごはん それが『サラメシ』」。公式サイトには「サラリーマンの昼食(サラメシ)から、話題の企業の社長さん、憧れのスポーツ選手まで。多彩な職業の人々の様々なランチを徹底的にウォッチング。この仕事だからこのランチというおどろきの法則や、笑いと涙のエピソードなど。ランチを入り口に現代日本で働く人びとの喜怒哀楽を、楽しく鋭くみつめます!」とある。
テレビというものについて言えば、もう正気かと言いたくなるほどのつまらなさや感覚のズレに愕然としたり、報道の気色悪さにムカついたりといったことが多いので、いくつかの番組を除いて基本的にあまり観ないのだけれど、この『サラメシ』という番組は、たまたまNHKにチャンネルが合っているという消極的理由から、音声をほぼミュートにしたまま30パーセントくらいの集中力で「ながら見」をしている。もっと正確に言えば、私はこの番組に対して頑張ってもそのくらいの向き合い方でしか観ていられないし、シンドイ時にはチャンネルをかえてしまうことも少なくない。
私はこの、多くの視聴者に好意を持って受け入れられているだろう番組を、とても微妙な気持ちで観ている。『働くオトナ』という言葉を持ち出された瞬間に、『働けないオトナ』の私はもう皮膚感覚でそれを受け付けることが出来なくなってしまうのだ。お前じゃないよと、いきなりはじかれてしまった気分。「現代日本で働く人びとの喜怒哀楽」って、所詮『働けるオトナ』たちにとっての、笑いと涙と感動の、いいね!って言い合いたいみたいなやつなんでしょ、なんて、「オトナ」でいることから早々にはじかれてしまった私はついナナメから思ってしまう。番組を作っている人だって、自分たちのことを『働くオトナ』だって思っているんだろうな。ほらほら、みんな仲間じゃん?みたいな。わかるわかる、なんて言い合ったりしてさ。
そうして、想定されていない種類の視聴者である私は、薄紫色のモヤモヤとしたものに後ろから抱き着かれながら、やめておけばいいのに横目でふーんなんて言いつつ「ながら見」をする。大変なのと本当にシンドイのはイコールじゃないんだけどな、なんて思いながら。
職場でのランチを撮影され取材される「働くオトナ」たちは、なんだかんだ言ってシアワセな人たちだなあと思う。毎日自分の部屋から外へ出られる人たち、テレビカメラの前に自分の昼食を晒しながら笑顔でいられる人たち、働けるほどに心身共に健康である人たち、一緒に昼食を食べる同僚や仲間がいる人たち、自分のいるべき場所と思える職場を持っている人たち、職業人という社会的地位や役割を自覚できる人たち、自分にはするべきことや期待されていることがあると疑いなく思えている人たち、自分が社会の一員であるのは自明だと思っていられる人たち、自分は何者であるかを語れる人たち、そして、自分の価値というものを疑うことなく、何のために今日の朝起きて、何のために明日もまた生きるのかなんて、考える必要のない人たち。
偏見なのかもしれないけれど、番組に私が観るものは、私とは遠く離れたところに存在している『働くオトナ』たちの、その人たちは当たり前と感じているだろう毎日の、ずっと続くはずと信じられているだろう日常の、その範囲における「喜怒哀楽」の風景だ。生きていくためには働かなければならないのはわかっている。私だって高1のときアルバイトを始めてから病気になるまでずっと、職を変えながらも絶え間なく働いてきた。しかし今の私は『働けないオトナ』だ。そして世の中にはオトナとしてするのが「当たり前」と思われている労働に従事することが出来ない人が大勢いる。仕事を求めても得られない人だって少なくないだろう。心身や家庭環境、思いがけない不運などの様々な事情や、そこで抱える苦しさから、家に閉じこもったまま外へ出られない人もいる。オフィスや食堂にいても、昼ご飯を一人で食べねばならず辛い思いをしている人もいるだろう。昼ご飯を食べられず空腹を我慢している人だっているかもしれない。
私は、昼食を食べる『働くオトナ』たちを遠くに眺めながら、「そこにいない人たち」の存在を思う。
誤解してほしくないのは、私は病人の悲哀だとか疎外感、働けない負い目みたいな、そんなことを言っているのではないということだ。私は、自分が病気で働けないという事実について、自分が劣っているともだめだともまったく思っていない。ただ番組を観て自分が持ってしまう、ある種類の感覚が気になってしまうので、そのことについて考えたいとは思っている。
番組ではおそらく、多様な職場、多様な人生、なんてものを放送したいのだろうけれど、『働くオトナ』なんていうふわふわと屈託のない言葉で括られた、確実にある種類の人たちの世界として目の前に提示された時点で、私はもう向き合うことが難しい。シアワセなオトナたちの世界。午前中にする仕事があって、また午後にやらなければならない仕事がある人たちの世界。私とは確実にいる場所も見ている景色も違う人たちにとっての世界。そんなオトナたちの輪の中で共感され了解される「喜怒哀楽」。だから私は「ながら見」しかできないのだろう。いろいろ言ってシアワセな人たちの範囲のそれを提示されたところで、確かに自分無しで成立している世界を改めて確認させられるような気がして、私はそれ以上目を開けていられない。そして、共感されることの無いこんな思いを書き綴ったところでますます、お前の僻みなんてどうでもいいよとぶった切られるだけなんだろう。
ベッドのうえでキーボードを打つ自分の薄墨色の影を、指でなぞりながら思う。そう、決定的に私は、そこにいないのだ。
本当の「哀」は、きっと放送できない場所にある。
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