運命の人
2012年。私はその人に会いました。
場所は、地域住民のコミュニティスペースとして運営されている施設でした。その日は、その施設を会場として、住民の手による年に一度のおまつりが開催されていました。
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その施設はかつて、児童館でした。昭和50年代の小学生だった私は、放課後よくそこへ行って、マンガを読んだり、卓球やバスケットをしたりしました。友だちとお化け屋敷ゴッコを考案したり、ピアノの上手な子に弾き方を教えてもらったりもしました。小学生の私にとって、そこはとにかく、何とも居心地の良い場所でした。
年月が過ぎ、私の子どもたちも放課後になると学童保育に通ったりして、親子二代でこの児童館にはとてもお世話になりました。しかしその後、私たち家族は同じ区内の、少し離れた別の地域に引っ越しをしてしまい、それからは電車を乗り継がなければ辿り着けないその場所へ足を運ぶことはぱったりとなくなっていきました。
さらに数年が経ち、かつての児童館は現在のコミュニティスペースの形になって、乳児から高齢者までが利用出来る地域住民のための施設へと様変わりしました。地域の人たちの手によって運営される、地域の人たちのための施設。そんな施設の2012年のおまつりに地域外に住む私がどうして参加していたのかといえば、あるコーナーの運営を任されたからでした。
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2012年当時、私は東日本大震災のボランティアとして、ささやかながら支援活動のようなことを行っていました。宮城県南三陸町を中心に週末などに足を運んで、仮設住宅で炊き出しをさせていただいたり、ほんのわずかですが、清掃や漁業のお手伝いなどをやらせていただいたりすることもありました。また都内において南三陸の応援物産販売を行うことも多くあって、おまつりやイベントの会場などに場所をいただいては、仕入れた商品を並べて<東北応援販売コーナー>を出店するという活動もしていまいた。
震災後、仮設住宅での暮らしを余儀なくされ、本来の海の仕事に従事することが困難になってしまった女性たちが手作りで製作した可愛らしい手芸品や、被災を乗り越えて新たに起業した女性が販売する美味しい海産物の乾物など、私は現地で生産者の方々にお会いしてその思いに心を打たれ、商品に惹かれて、自分の住む東京で販売をさせていただく活動を始めたのでした。当時は主に一人で販売を行うことが多かったのですが、友人や南三陸町で知り合った首都圏に住むボランティアたちが遠くから来てくれて、手伝ってくれることもありました。
その施設のおまつりに呼んでいただいたのも、私の友人が住民有志として施設の運営委員を務めていて、私の小さなボランティア活動を知って、大勢の人が集まるおまつりに是非応援販売コーナーを出してみないかと誘ってくれたのがきっかけでした。この友人をはじめ、施設の方たちが背中を押してくださったことがきっかけとなって、私はその後、広く様々な場所でこうした応援販売活動を長く続けていくことになります。活動を支えてくださった、施設の方たちのあたたかく真っ直ぐな思いに、私は今も頭が下がります。
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おまつりの日。私は旅行用の大きなスーツケースに商品をいっぱいに詰め込んで、会場となる施設へと電車を乗り継ぎました。到着すると私はすぐに、<東北応援販売コーナー>の看板が掲げられた会場の一角へと向かい、その日の「お店」を作り始めました。南三陸町の景色や美味しいものの写ったポスターを壁に貼り、会議用テーブルに商品を並べて、手作りの値札や商品の解説書などを設置します。釣銭とレジ袋を用意して準備完了。あとはお客さんを待ちます。
おまつりの会場には、私の「お店」以外にも様々な団体が参加していました。福祉作業所の販売するパウンドケーキは好評で早々に売り切れていましたし、サイコロで出た目の数だけソース煎餅がもらえるお店は子ども達で大賑わいでした。決して広くない施設の中には他にもたくさんのコーナーがあって、おまつりの開会式に入りきれない子ども達や近所の方たちが施設の外まで列を作るくらい盛況でした。
私の「お店」といえば、豚汁やたい焼き、バザーやゲームのコーナーなどと違って、我先にと親子連れが集まってくるようなコーナーではありませんでしたが、それでも商品はとてもよく売れました。おまつりへ参加する回数を重ねていくと、年々販売を楽しみにしていてくださる常連のお客様も増えていって、そんな方たちと話をするのは幸せな時間でした。今回は商品が少し残るかな?なんて思うときがあっても、施設の運営団体や他のコーナーの方たちが必ず買いに来てくれて、最後の一つが残ることは殆どありませんでした。「完売の方がいいでしょ?」なんて言いながらお財布を出してくれる方たちのおちゃめな笑顔を見ながら、私はいつも嬉しくて涙が出そうでした。
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2012年の秋。
おまつりが終わり、会場のあちこちでは手際のよい撤去作業が始まっていました。私は自分のコーナーで、テーブルに貼った値札をはがしたり釣銭をまとめたりと一人で「お店」の片づけをしていました。
だいたいの片づけが終わった頃、隣のコーナーにいた男性に、私は声を掛けられました。「ボランティアやってんだって?」。眼鏡をかけキャップをかぶり、チェック柄のシャツを着た、大柄で貫禄のある年配の男性でした。私が「はい」と返事をすると、男性は私に小さな箱を差し出しました。「これ、やるから。使いなよ」。それは、男性が運営していた陶芸作品の販売コーナーの、売上金でした。男性は売上金の入った箱をそのまま、私に手渡したのでした。
私が驚いて言葉に詰まっていると、男性は続けました。「俺はボランティアをしているやつを応援するボランティアだ。頑張っているボランティアを応援する。だからあんたを応援するって決めたんだ」。私はその突然の申し出に自分の発すべき言葉を見つけられずにいました。男性は、陶芸の団体の名称が書いてある名刺を差し出しながら、どんなボランティア活動をしているのか、どんな思いで活動をしているのか、と私に尋ねました。その口調はゆったりとして優しいものでしたが、私には男性の眼が、適当で曖昧な言葉やその場限りの誤魔化しを許さない、私の気持ちの細かな揺れまで見透かしてしまうようなものであるかのように感じました。私は慎重に、一つひとつ言葉を選んで質問に答えました。この突然かつ大きな期待に、好意に応えられるように。そして何より、この眼に落胆され、突き放されないようにと願いました。そして「あんたの判断で、このお金はつかいなよ。俺はもうあんたにあげたんだから」と言われた箱を受け取って、礼を伝えました。
これが、運命の人との出会いでした。
あれから8年。男性は私の参加するボランティアの現場に、いつも一緒にいてくれました。「ボランティアをしているやつを応援する」というその言葉の通りに、私のことを見守り、応援し続けてくれました。宮城、福島、東京。どこへでも飛んで来てくれました。おまつりを開催する施設の運営団体が、自ら主催するバザーの売り上げの一部を南三陸町への寄附にと考え私に預けてくださったときも、南三陸町の役場まで一緒に届けに行ってくれました。被災地を舞台にした映画に私が関わらせていただくことになり、その映画がある映画祭で評価を受け上映されたときにも、応援にと言って映画祭の行われる山形まで足を運んでくれました。私はいつも、眼鏡の奥のその眼が「大丈夫だ」と私に言ってくれていることを確認しながら、今まで歩んできました。
男性は数年前、重大な病気を患いました。大きな手術と意識の戻らない長い長い月日を乗り越えて、今は力強く快復され、陶芸の制作活動に精力的に励んでいます。私は、男性の強くぶれないその姿に、今も私を応援すると言ってくださるその言葉に、心が震えます。そして私は自分の胸に、心臓に、問いかけます。私は間違っていないだろうかと。しっかり立てているだろうかと。この方に応援されるに足る人物で、あり得ているだろうかと。
運命の人との時間は、これからもまだまだ続きます。
ずっと。
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