しゅごい話
書いてしまえば、ますます私は嫌われるであろう。それでも、そろそろ書いてしまってもいいと思う。私を、ヨチヨチ歩きの赤ん坊か、はたまた子犬やパンダか何かと一緒にしないでもらいたい、と。
私は外出時に電動車椅子を使用している。ほとんど毎日のように使い始めて1年と数か月、人通りの多い夕方の駅前だろうがどんなに狭いコンビニの店内だろうが、人をよけ物をよけ、私は電動車椅子でずんずんと進んでいく。それは介護保険でレンタルしている電気モーター式の移動機器でしかないのだが、一方でもうすっかり私の体の一部にもなっていて、自分で言うのもなんだがその操作はかなりうまいものだと思っている。私が頻繁に利用するバスの車内の車椅子用スペースにも、私は縦列駐車の要領で素早くピタッと車椅子を収める自信があって、もしもそんな競技があればそこそこ大きな大会も勝ち抜けるくらいではないかと、こっそり自負している。
車椅子ユーザーに限らず誰にでも経験があることだと思うのだが、町を出歩いていて、ふとしたきっかけで見ず知らずの人に話しかけられることがある。バスの中で昼間から少々お酒の匂いをさせている上機嫌なおじさまに突然声を掛けられて身の上話をされた時には、その波乱万丈な人生に驚かされたものだし、地下鉄の車内でその日が電動車椅子での2回目の外出だという女性に話かけられたときには、その笑顔の上品で爽やかなのに嬉しい気分にもなった。こうした時間は天からのサプライズ・プレゼントみたいなもので、縁というか偶然というか、出会いとは面白いものだなと、その日一日、愉快な気持で過ごせたりもする。
一方で、戸惑い面食らってしまうような、余り望ましくない出会いもある。路上や駅、電車の車内などにおいて、車椅子の私をいかにも邪魔だと言わんばかりにチッと舌打ちをする人や、私の行く手を塞ぎ断固として場所を空けてくれない、わかりやすく私を排除しようとするような人たちとの、残念な出会いである。運悪く出会ってしまえば当然愉快ではないのだけれど、そんなとき私は自分の中にただ真っ直ぐに闘争心が湧いてくるのを見つめていればいいだけであって、要するに、こういった類のことで私の気持はあまり折れることはないし、殆ど怯まないと言っていい。
ここで私が書きたいのはそのようなHPを減らされるタイプのストレートな攻撃のことではない。気が付いたら目の前で”ふしぎなおどり”を踊られてMPを吸い取られてしまっていたというようなタイプの、何とも質の悪い、モヤモヤと残念な出会いのことである。つい先日もとある場所で遭遇してしまった人との時間がまさにそうであったのだが、強烈なイラつきと共に私をへなへなと脱力させたその人とは、一貫して<私を赤ん坊扱いする人>だった。
その種類の人たちは、私を手放しに褒めるのである。多くは、私の「電動車いすを操作する技術」なんかを称賛する。通りすがりの人もいれば、たまたま何かの席で隣り合わせたような人もいる訳だが、そういった偶然にも出会ったばかりという人たちが、私が電動車椅子を何の気なしに操作するのを見て、目をパチパチとさせて大袈裟にこう言うのだ。
「まあ!じょおおずうぅぅ!すごおぉぉい!すごおぉぉい!じょおじゅでしゅねえぇぇぇ」(キャッキャとはしゃぎ、パチパチパチと拍手しながら)。
私は思う。「馬鹿にしてんのか?」と。私はもうじき50歳になる、見た目にも紛う方なき中年女だ。何故、ヨチヨチと歩き始めたばかりの赤ん坊のように「あんよ、じょおじゅねえぇぇ」なんて褒め称えられなきゃならんのだ。赤ん坊どころじゃない。これじゃあまるで私は、飼い主に”お手”をして褒められている子犬と、でんぐり返しをして見物人を湧かせているパンダと、同じじゃないか。
いや、小回りを利かせて操作される電動車椅子に感心した態の人から、「ほう、上手いもんですね」なんて声を掛けられることはたまにある。そんな風に言われるとき私は少々得意になって「まあ、体の一部ですから。ははは」なんて言ってみせたりするのだが、それはまだごく普通に、対等な人間同士の会話として成立していると感じられるので、私は別に何とも思わない。そうした大人同士の配慮された何気ない言葉のやりとり、よくある普通のコミュニケーションであれば勿論何も不満はない。私が不愉快だと言っているのは、私という人(相手にとってみれば<車椅子障害女>なのであろう)に対する偏見と無理解、そして我こそは弱者の味方であり理解者であるという誰の為かわからない独りよがりのパフォーマンス、そして自己陶酔のことである。その末路、あの屈辱的な口のききように結晶するのであろう。なぜ彼らは中年女たる私に対して、何も出来ない赤ん坊に接するような失礼極まりない態度を平気でとれるのだろうか。
<車椅子障害女>であることは、無力であることとも幼稚であることとも人格として半人前であることとも、イコールではない。”弱者の味方であり理解者である、意識の高い自分”に気持ちよく酔い、私の前にはしゃいでいるあなたは、すべてに自覚のないままに自分の差別的な一面までも露呈させてしまっている。一人前でない、弱くて、保護すべき、無能で、無垢な、<障害者>。心の底にそんな思いが染みついているからこそあなたは、50になる中年女である私を平気で赤ん坊のように扱うのだ。子犬にするように、パンダにするように、私がくるりと車椅子の向きを変えただけの仕草にキャッキャとはしゃぎ、「しゅごおぉぉい!」と私を手放しで褒め称えるのである。
私の遥か頭上から、あふれ出る母性を私にびちゃびちゃと浴びせかけ、「私だけは、あなたのことをわかってあげているからね」と、慈愛に満ちウルウルとした目を私に向けてくるあなた。私を一人の成人女性として扱わず、守らなければならない無能で半人前の気の毒な車椅子の弱者、という役割に押し込めようとするあなた。残念ながら、そんなあなたと私との間には、大人同士の対等な人間関係など望むべくもない。折角の出会いであったのに、あなたと何気ない会話もしたかったし、優劣の無い同等の立場で意見交換もしたかったのに、赤ん坊扱いされたことの衝撃の前に、私のささやかな希望も気力もすっかり萎えしぼんでしまった。理解者でありたいと願っているはずのあなたの耳には、私の言葉など届かないのであろう。私は、赤ん坊であり子犬でありパンダなのだから。
自分だけは気付いている。自分だけはわかっている。自分だけはその他大勢の意識の低い人たちとは違う。-どんなふうに信じ込みたいかはあなたの勝手だけれど、一つだけお願いしたい。あなたの満足の為に、どうか私を利用しないで欲しい。私を、巻き込まないでくれ。
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