正義、執行。
社会的地位に応じて社会的役割がある、と社会学で学んだ。家族としての、親としての、夫としての、妻としての、大人としての、学生としての、子どもとしての、医者としての、教師としての、警察官としての、農家としての、政治家としての、コンビニ店員としての、会社員としての、アルバイトとしての・・・それ。ここでいう社会的役割とは、職業や立場に応じて期待される社会規範に則った適切な行為や行動のことだ。
教師が生徒を教え導き、医者が患者を診るのは当然だ。学生は学び、家族は互いに支え合うことを求められる。ひとりの人間にはいくつもの社会的地位があり、社会的役割がある。誰もが日々いくつものそれを上手に使い分け、演じ分けて生きている。そういうものなのだと思う。
一方で、そうした職業や立場なんかを離れ、「私には○○という役割がある」と語る人がいる。何か社会活動をしている人に多い気がするのだが、大概は社会的に意義のある、称賛されるべき素晴らしい「役割」だったりする。世界や社会や地域や誰かのための、正義の行動。社会的に正しく反論の余地のない、利他的で立派な意気込みのはずだと思うのだが、私はそうした眩しいような言葉を聞くたびに、その向こうにちらつく優越意識に違和感を覚え、ますます私の生の追い込まれていくのを感じて、どんよりと暗い気持ちになる。
あの人たちは、なぜ「役割」という言葉を使うのだろう?なぜそれが、他の誰でもない、自分にこそ期待され付託されていると考えるのだろう?自分は優秀だから?特別だから?なぜ「自分がやりたくてやっている」と言わず、「自分はやったほうがいいと考えるからやっている」と語らず、「自分の役割」など言うのだろう?選ばれし特別な自分だけに課された聖なるミッション。それは誰に要請され託された「役割」なのだろう?世間?社会?時代?神?
こういう語られ方と同じように「役割」というものを私に当て嵌めて考えてみれば、私にはそんなものは無い。それでも敢えて、誰かの為に私こそが出来ること、私に期待される「役割」について捻りだしてみるならば、「私にとって最も身近な介護者の負担を減らしその義務から解放してあげるために、さっさとこの世からいなくなってあげること」くらいである。それだけが私の「役割」だとするならば、「いなくなるために生きる」という耐え難い矛盾の中で、日々砂時計の残りがサラサラと減っていくのをじっと待っていることだけが、私の生の中身だということになる。全身が動かなくなる不治の難病に侵され死を待っているだけの私の、その「役割」とは何かと問うてみる。「いや、あなたは『役割』など考えず、生きていればそれでいいのだ」と、きっとあの人たちは優しい声で言うだろう。でも考えてみて欲しい。それって差別的だよ。強く優秀で選ばれし特別な人間である自分には崇高な「役割」が授けられ期待されていて、弱く非力で何も出来ないあなたには自分のような「役割」なんてものは無いのだからただ生きていればそれで十分だ、なんて、そんなの変じゃないか。聖なるミッションを託された重要人物たる自分と、とりあえず生きていればいいだけの「役割」なんて持ちえないあなたは別の種類の人間なのだと、私とあなたはその生の価値において違うのだと、そんな隠し切れない優越意識が、肥大した自尊感情がちらついて、私は眩暈を起こしそうになる。生きていることの「役割」を語ることは、「役割」を持つことが難しい人の排除に繋がりはしないかと考えるのは、杞憂だろうか。
「じゃあ、あなたも何か自分の『役割』を探せばいい」とあの人たちは言うかもしれない。「生きる意味くらい自分で見つけなさい」とも。私は反論する。いや、生きることに意味なんて要らないんじゃないの?と。生きたいから、生き続けたいから生きるのだ。それで十分なのだ。生きていることそのものが、それだけで素晴らしいのだ。生きづらさを抱え、誰にも理解されないしんどさの中で、たった一人で毎日を闘い、生き抜いている人も大勢いるだろう。その時間こそが尊い。生きていることそれ自体が尊い。生に役割も意味もない。それで十分じゃないか。
生を語る次元は、その崇高なる使命を語る次元と遠く離れていることに、この素晴らしき人びとは、いつ気付くのだろうか。正義の執行人たるあなたは、その「役割」に無邪気すぎやしないか。
♪BGM:突風(真心ブラザーズ)
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