Kさんへ


先ほどはLINEで失礼しました。長文となりますので、こちらのメールに書かせていただきます。


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少し前に「迷子」という文章を書きました。少し引用します。


―「今も私は、何も変わっていない。こうして今日も、世界との距離を少しずつ空けようとしている。私がいると面倒だと思う人。私を利用しようとする人。気が向いた時だけ近づいてきて、自分の善意や感傷の対象にしようとする人。いや、そうじゃない世界にも私は気付いているはずだ。世界は広く、人間は面白いし素晴らしい。そんなことは知っている。でも私はあの時と同じように、心底うんざりして、つまらないと思いかけている。」


先日私が「こんな社会にしがみつくほどの価値があるのだろうか」という内容のことを話した際、上の文章を頭に思い浮かべていました。もう生きなくてもいいかな、と思わせているもの。それでもこの社会にしがみつきたい、と思わせているもの。その”半々”の、失望と希望についてです。


>>発された言葉は、それ自体として、無条件に、発された人の言葉として、腹の底からまじめに受け止めるべきものであるはずです。


私は、私が私自身であること以前に<当事者>であるという現実を利用されることへの、抵抗が大きいのだと思います。

自分が「もうすぐ死ぬ人」という属性のみをもって捉えられ、扱われることがいかに辛いことか。

私はALS患者である前に、私自身であり、私として生き、私として死ぬために文章を書いています。そして私は生活人であり妻であり母であり経営者であり、ある人にとっての友人です。

センセーショナルな病気の人間として、もうすぐ死んでしまう悲劇の人として、誰かの好奇や憐憫や自己満足の材料として、一時の余興として、誰かの前に立ちたいとはまったく思いません。Kさんが、ALSの患者さんたちのことをそんな風にお考えになっておられるだろうとは露思っていません。しかし、私はあまりの辛さの前に、こう思わずにはいられないのです。私に関わる方々のその目的がいかに崇高なものであれ、結局は私の疑念の通りになるのではないか、と。私は、私自身としてではなく、「もうすぐ死ぬ人」の一つのアイコンとして都合よく利用されるということに変わりないのではないか、と。

いえ、私はきっと、薄々気付いているのです。意味のある行為だと。志ある方々に委ねれば多分きっと上手くいくのだと。いろいろな原因、理由から私が一人で考えらえないことも、同志たちと共にであればきっと考え進めることが出来るのではないか、と。

それでも私は辛いのです。私のちっぽけな理性などでは太刀打ちできないほど、残酷過ぎるのです。この病気であることは決して恥ではありませんが、名誉でもありません。考えるのも恐ろしい、叫び出したいような残酷な事態です。そんな自分を晒してまで、誰かに希望を委ねられるのか、委ねたいか、という疑問。そして同時に、「私自身に言いたいことが、伝えたいことがあるだろうか」とも考えます。もしあるとするなら、それはこれまで通り自分ひとりで、自分の文章の中で表現すればいいのではないだろうか、と。


>>何かを「しゃべっている」ようで、何をも「話していない」人も、実はたくさんいました。


昨日、佐野眞一氏の『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』という本を読んでいました。著者は「テレビに登場するコメンテーターが口にする一見もっともらしい発言」について、「彼らは同義反復しているだけで実は何も言っていないのに等しい。何かを言っているように聞こえるのは、彼らの顔や仕草を見て、こちらが情報を補ってやっているからである。」と。まさにそうだと思いました。著者は「世界がくっきり浮かび上がる言葉」が必要なのだといいます。「説く」のではなく「語る」のだと。「『語って説かず』。それがノンフィクションの一番の要諦だ」という著者の言葉は、私にとって説得力のあるものでした。

「説く」ための枠組みに「物語」を都合よくねじ込み当て嵌めるのではなく、「物語」は「物語」のまま、提示することが大事なのだと私は思います。「病気」や「病人」ではなく「人」を考えたい、考えて欲しいと願っています。

これは先日、一周回って文学はまったく大事だと強く思うようになった、とお話したことにも繋がります。


いかによく生きるか。そのための議論をしたい。生きる希望を語り合う過程で、死について触れることはあるだろうと思うのです。しかし、いかに死ぬかについてばかり語り合いたくはない。死ぬことについてなど考えたくもない。人として当然です。ではなぜ、私たちは死ぬことの議論ばかりを当然のように押し付けられねばならないのか。私たちに、さっさと去れと言いたいのか。

正直に言えば、日々、放っておいても死について考えない瞬間はありません。それでも何とか狂気に逃げずに生きていこうと堪えています。それくらい、苦しいことです。

Kさんのやろうとなさっていることが、世に「説く」作業であるより前に、この病気を生きる仲間たちの、そして私自身の、希望になるようなものであってほしいと願っています。その意味で、Kさんは仲間であってほしいと願っています。


>>社会が「しがみつく」に値するための、守るべき最後のモラルだと思っているのです。底なし沼でせめて沈まずにいるために、足をかけるための弱い弱い藁です。


私も共に考えさせていただきたいと思いました。Kさんとの出会いに、私も応答したいし、しなければならないのだと思います。


拙文長文、お付き合いいただいてすみません。お返事になっているでしょうか。

どうぞ宜しくお願いいたします。



書くこと。生きること。:Hiromi's Blog

書くこと。学び、考えること。難病ALSに罹患し、世界や自分のあり様を疑う戦慄の時間。生きた証として書いていきます。 satohiromi.amebaownd.com/