いのち
介護ヘルパーを長くやっていたという知人から、こんな話を聞いた。
介護保険制度が出来たばかりの頃。ひとり住まいの利用者宅を訪問すると、どこから手をつけていいか途方に暮れるほどに部屋が散らかり、酷く不衛生な家が多くあったという。
長く誰も訪れていない部屋。異臭のする弁当の容器と山積みの洗濯物。押し入れを開けるとネズミが飛び出してきたこともあったそうだ。
とあるお宅の家主もひとり住まいで、高齢で体を悪くし這ってトイレに行かねばならないほどの容体だったらしい。誰か手を貸して欲しい、という祈りは届くことなく、ゴミだらけの部屋で汚れたベッドに体を横たえ天井を眺める日々。どれだけ苦しかったろう。他人事ではない。胸が痛くなる。
制度が出来てしばらくしてからは、そういうお宅はあまり見なくなった、と知人は言った。ヘルパーが入る家は、おおよそ制度に繋がっている人が住む家ということだ。ヘルパー、ケアマネ、行政の担当者。見守る目が、相談出来る相手がある暮らし。一方で大きな困難にありながら、さまざまな理由から制度や支援に繋がることが出来ず、身内や友人など手を差し伸べてくれる社会関係を持たない人たちがいる。高齢や障害ばかりではない。そうした当事者たちは一体、どうやって今この時代を生きてゆけばよいのだろう?
他人に迷惑をかけるなとか自己責任だとか、そんな世間の大合唱に自らの生を萎縮させて、掠れ出せなくなった声に一体誰が耳を傾けてくれるというのだろう?
健康な体も信じ合える人間関係もお金も将来への希望も、望んだところで手にすることの出来ない人たちの世界中に在ることを、そんな仲間と同時代に生きていることを、私はいつも頭に思っていよう。
他人に迷惑をかけてまで生きたくない、自分だったら死にたくなると思う、死なせてあげた方がいい、虐待されても仕方がない、殺したくなる気持ちもわかる、世話をする方の身にもなってみろ、生産性の無いヤツらに支援など要らない、ズルをして支援を欲しがるヤツらがいるから制度を厳しくしろ、お前自身の選択なのだから他人を頼るな…
1ミリの想像力も持たずあまりにも安直に発信される言葉、言葉、言葉。スマホの画面に人知れず傷だらけになり生きることを諦めてしまった人のかなしみも、再びそうした言葉を生み出すための肥やしになってしまうだけなのだろうか。
動かない体の上をネズミが走ってゆく日常を想像してみたらいい。そんな仲間を、自分を、放っておくような社会に私たちは生きたいのだろうか?
もう誰にも、生きていたくないなどと思わせないために。私は残りのいのちを生きよう。
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