『東京満蒙開拓団』

『東京満蒙開拓団』(東京の満蒙開拓団を知る会・ゆまに書房2012)を読む。
東京の満蒙開拓団について在野の研究者らが著した一冊である。よく知られるように、敗戦後の満蒙開拓団の決死の逃避行は筆舌に尽くし難い過酷なものだった。当時満州にいた開拓団員は約27万人を超える。寒さや飢えや病気による死亡、またソ連軍侵攻後の集団自決や現地民による報復、シベリアへの抑留など約7万2000人が犠牲になり未帰国者は約1万1000人に上ると推定されるという(正確な数字はわかっていない)。
そこには「大陸の花嫁」として海を渡った若い女性たちや、「青少年義勇軍」として学校単位で集められ満洲行きとなった子どもたちもいた。敗戦後、運良く祖国へ帰還出来たとしても、身よりも住まいも失った人びとに待つ運命は非常に厳しいものだった。私のような年代では残留夫人、残留孤児の話題などには子どもの頃にニュースで触れていたが、「ルンペン開拓団」「転業開拓団」「疎開開拓団」等様々な形で、しかも東京から多くの開拓団を送り出していた事実は全く知らなかった。
救貧事業や雇用経済対策、農業移民、疎開と、大義名分の下に展開された開拓団という国策はその多くが綿密な計画や長期的展望のないご都合主義的なもので、彼の地に多くの「棄民」を残した。読み進めながら、現代の私たちが重なる。今も故郷の福島へ帰れない人たち。基地の負担を押し付けられる沖縄の人たち。制度に取り残される難病患者や重度障害者だってそうかもしれない。救済されることのない、立場の弱い人たちが思い浮かぶ。
失業者対策や貧困対策など、満蒙開拓団の送り出しには社会事業団が熱心に関わったという。最後に、最も印象的だった一節を引く。
「今日の日本社会では、NPOなどの社会事業が果たす役割は格段に大きくなっている。多摩川農民訓練所※の短い歴史は、それらの情熱が、何かの変化で、誤った国策に絡め取られる可能性について、警鐘を鳴らしてはいないだろうか。」


※(筆者注)多摩川農民訓練所…失業救済事業として設立。のち満蒙移民専門機関へと性格を変えた。

書くこと。生きること。:Hiromi's Blog

書くこと。学び、考えること。難病ALSに罹患し、世界や自分のあり様を疑う戦慄の時間。生きた証として書いていきます。 satohiromi.amebaownd.com/