平和の唄

私はここ1、2 年ほど、戦死した祖父の足取りを追うため、思うようにならない身体を引きずりながら調査を続けてきた。それはまだ完了したなどと言えるような状況には至っておらず、おそらく私のこの先短い一生では終わらないだろうと確信している。祖父はその最期を公式に記録されるほどの階級の軍人ではなく、戦後26年が経って勲八等の勲章を170万人目に送られてくるような「兵」だった。
自らの調査において、私は徹底して、私のその時点でのさまざまな意味での力を持って触れられる限りの一次資料にあたることを心掛け、完璧ではないにしろ、ある程度実行してきた。東京都庁や厚生労働省への問い合わせや軍歴請求はもちろん、地元の図書館をはじめ国会図書館や国立公文書館、防衛省防衛研究所、靖国神社偕行文庫にも何度も足を運んだ。司書や学芸員の助けを借り、専門家の話を聞いて、WEB上で閲覧し得る原資料や論文を読み込み、集めた資料データを整理して、今は祖父の最期のある時間に対して自分なりの見通しを持つに至った。
この調査の期間、私はさまざまな知識を得た。祖父の足跡という枠を超え、広島や沖縄にも何度か足を運んだ。そして、最も大きく強く心に感じたことは、この国とそこに住む人びとを愛する個人としての、平和への強い思いであった。祖父が戦死したことそのものも深いかなしみではあるが、何より辛かったのは、触れる資料に残された、どこかの誰かの手書きの文字を読むことであった。

右肩上がりの角張った字、達筆が過ぎて私には読みづらい字、漢数字の七や九が特に独特な字。まるでOCRで読み取れそうな美しい楷書に出会うと、ああこの軍事日誌は読み易いとホッとしたし、物資の乏しい戦争末期にあって、粗雑な紙の陣中日記に挟まれた手描きの図面の精密で見やすいのには感嘆したりもした。おそらく空襲の止み間のない最前線で書かれたものであろう、縦横真っ直ぐに線の引かれた物資一覧表に「三角定規、一」などと几帳面に書き込まれた物品管理簿を目にすれば、抑えようもなく胸が熱くなった。
これら記録を書き留めたのは、おそらくそのほとんどが大して階級の高くない、私の祖父と同じような兵だったはすだ。昭和十九年、二十年。これら部隊の行く末を、私は知っている。この知性が、真面目さが、几帳面さが、繊細さが、器用さが、実直さが、熱心さが、誰かの父が、兄が、弟が、息子が、なぜ死なねばならなかったのか。私は資料のコピーに線を引き、付箋を貼りながら、ただただ、ただただ無念に思う。私はこれらの美しく読みにくく個性的で生真面目な字をしたためた日本兵の、日本人たちの誰一人として戦争なんぞで死んで欲しくはなかった。人ひとりがどこでどのように亡くなったのかという重要な事実を、誰にも記憶されないままに息絶えねばならぬような最期を迎えてほしくはなかった。家族の元で、故郷で、彼らの大切な人たちの見守る中で、自分自身のために生きた人生を閉じて欲しかった。叶うなら、空襲警報の鳴らない東京の青空の下で、大福でも頬張りながらこの人たちに会ってみたかった。

こうして資料を読み漁り、私は確かにそこにあったものを知る。そこにあったものを知って初めて、失われてしまったものを知るのだ。それがいかに尊く、かけがえのないものであったかを。誰も戦争で死んではいけないのだということを。

祖父母に育てられた父が、戦没者名簿の彼の父の名に目を止める。無言の時間は短くて長い。

私は平和を願う。そして、そのために生きよう。


書くこと。生きること。:Hiromi's Blog

書くこと。学び、考えること。難病ALSに罹患し、世界や自分のあり様を疑う戦慄の時間。生きた証として書いていきます。 satohiromi.amebaownd.com/