美談と責任
第一線の科学者による重要な基礎研究が、そのための費用をクラウドファンディングに頼らねばならない現状について、私は懸念を覚えます。善意は感心をもって広く人びとに受け入れられますが、本来、国なり行政なり然るべき公的な機関なりが責任をもって担い支え解決しなければならない我々にとっての重要課題までもが、美談のカーテンの向こう側でこれ幸いとその責任の荷札をはがされ、曖昧に放り出されてしまってはいないかと私は危惧するのです。
子どもや立場の弱い人たちへの支援事業や、災害の復興事業などもそうです。寄付やボランティアは素晴らしいことだと思いますが(私自身も“ボランティア”でした)、それがあることが前提の枠組みや制度設計なのではなく、私たちの社会にとってほんとうに大切なことは、政府や自治体が責任をもって取り組むべき課題として十分に議論がなされ、予算化され、実行されていかねばならないと私は考えます。人の心を揺さぶる感動的な話は人を惹きつけて止みません。けれど、私たちの社会の在り方を考えるとき、私たちは私たちのほんとうに大事なものを、どこかの誰かの(敢えて言えば、気まぐれな)善意によって達成される幸運にのみ委ねてはならないと私は思うのです。それは、私たちが信任した私たちの代表によってなされる誠意と言葉を尽くした論議の末に、私たちの社会に必要なルールや仕組みとして責任をもって確実に遂行されるべきではないでしょうか。
血税2兆円を無茶苦茶なの個人番号事業に投じるのであれば、こうした研究にこそ助成してほしい。車いすのまま立ちくらみがしそうなニュースを横目に見ながら、私はこんな風に考えるのです。
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