相模原障害者施設殺傷事件
7年が経ちます。
読まない方が、自身の精神衛生上、確実に良いと思われるネット上に溢れる当該事件に対するコメントの類を、私はやはり読んでしまっています。
社会全体の生産性だとか、家族に重度障害者がいることの辛さとか、施設で働く方々のご苦労とか、日本における尊厳死・安楽死の法制化についてとか、周りに“迷惑”をかけるくらいなら自分だったら死にたいと思うとか、7年前から、あの痛ましく、どこまでも痛ましく苦しく凄惨で衝撃的な事件から、私たちの社会はまるで思考することをやめてしまったかのように、私には感じられます。家の最も奥にある、決して雨戸の開くことのない薄暗いその部屋に置き去りにしたままの重い問いを、あの事件が起きる土壌となったこの社会の有り様に対する疑念ごと、私たちは閉ざされた襖の向こうに放置してきました。
こんなにも、かつての容疑者であり死刑囚である人間に対し、間接的かつ留保付きであるとは言え、共感が語られるような凶悪犯罪が他にあるでしょうか。その共感は、容疑者が手にかけた命、容疑者がその命を奪ってまでもこの世界から排除したかった重度の知的障害の方々に対する、ジェノサイドそのものであると、私は考えます。
人に迷惑をかけたらいけない。もし自分がそんなふうになるくらいなら、死んだ方がマシだ。
驚くほど多くの人がこんなことを口にします。この類の発言は、一見、自らの生の有り様に対する勇ましい決意表明のようにも感じられますが、容易に他者にも向けられます。いえ、他者に向かってそう思っているからこそ、死んでしまいたい、などと人は言うのです。人に迷惑をかけるくらいなら「あなたには」生きないで欲しい。そんなふうになるくらいなら「あなたには」死んで欲しい。そう言っているのと変わりません。
ALSという不治の難病を生きる私は、このような言葉を聞くたびに、お前は生きるな、もうこれ以上生きるな、死んでくれ、と言われているような気がして大変苦しい思いがします。正直なことを言えば、気が違いそうなほどの苦しみです。何の躊躇いもなく「迷惑」と口にする私たち自身に、こんな私たちを私たちたらしめるこの社会の有り様に、何の疑念も持ち得る余地はないのか。私のこの問いを共にする他者はこの社会にいないのだろうかと、私は一人呆然とするのです。
いつの間にかこの社会は、人が「生きる」ことに対して、ただただ厳しい社会へと変容してしまいました。なぜこんなにも、人が「生きる」ことに対して、この社会は、いえ、人はこんなにも厳しいのでしょうか。
たまたま現代の日本に生まれたこと。たまたま「障害」がない体であること。たまたま高等教育まで受けさせてもらえたこと。たまたま何かの能力が備わっていたこと。たまたま自分の存在を排除しない他者に恵まれたこと。誰しも、偶然の積み重ねのうえに、今という人生の時間を生きています。
自らの力によって今の境遇を自ら勝ち取り、作り得たのだと信じ込むことができるような恵まれた人たちの、その偶然性に対する自覚のなさ、傲慢さに私は驚かされます。すべてを自らの力で手中にしたと思いたい気持ちも全くわからないわけではありません。しかしそれは大いなる勘違いです。
その勘違いが、人に対する厳しさを生みます。
「頑張ったものが報われる社会を」という耳障りの良いスローガンなどは、反転すれば、この社会で「報われない人たち、うまくいかない人たち」は努力をしない怠け者たちである、という間違った認識へとつながります。これはとんでもない暴論です。様々な事情から、頑張りたくても頑張れない人はいくらでもおられます。いくら頑張ったとしても、運や偶然によって、それが成功につながらないという人も大勢いらっしゃるでしょう。そうした人たちを上手に排除し、私たち自身を苦しめるロジックに、私たちは騙されてはいけません。あらゆる人が幸せに生きられる社会が理想であると、私は思います。そのために何千年も昔から、人はずっと、思索や対話を続けてきました。
私たちが、この社会から与えられてきたもの、今も得られているものの大きさは計り知れません。そしてこの社会は、私たちの先人たちが試行錯誤の上に作り上げ、支え、維持してきたものです。教育への助成や、子どもや高齢者への支援や、医療への手当てや福祉や社会保障や、すべては当たり前ではなかったのです。私たちがこの手に握っているものも、その前提のうえにあるものです。私たちが所与のものとしている、そうしたものに対する謙虚さを、冷静な評価を、失ってはならないと私は思います。
私たちが作るこの社会の中で、価値があるとされるもの、それは私たちの歴史の中で常に変化してきました。そしてその価値基準が社会の有り様も少しずつ変えてきたはずです。この社会がおかしいと思うならば、かけがえのない誰かの命を奪い、存在を全否定することでこの社会の矛盾の辻褄合わせようとするのではなく、別のやり方を考えれば良い。今ある社会が最善と思えないのなら、誰かの苦しみのうえに成立しているのであれば、変えていくしかない。その可能性を否定し、綺麗事などと言い散らかす態度そのものが知的怠惰であり、思考停止そのものであると私は考えます。私は、あるべきオルタナティブを模索し続けることを諦めません。
脳神経内科病棟の病室から
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