Knock on the door

哲学の授業を受ける。

理性主義から実存思想へ。「この私」としてイマココに放り入れられた車椅子の自分が、震える指でiPadにノートを取る。

社会を、自然を、人間をどうとらえるか。人間の本質とは何か。人間の本質は理性であって、人間には等しくそれが備わっていると言った人がいるらしい。

心がざわざわする。その昔、こうした考え方に間違った後ろ盾を得て、何かが出来なかったり難しかったりするような人たちを“人間”の括りから締め出して迫害し利用しようとした歴史の事実がどこかにきっとあったのではないか。

日頃、フツーの人間からはみ出した存在のようにまなざされ扱われる私や私の仲間たちであるが、過去の歴史のどの瞬間においても“人間”の枠内から取りこぼされずそこに含まれてとらえられ考えられていて欲しい。


授業が終わり、教室前方のホワイトボードの前で数名の学生(世代はいろいろ)たちが先生を囲んで質問をしている。マルクス主義、なんて言葉が、私のいる最後列の席まで聞こえてくる。知的な遊びを楽しむように、物知りな学生たちの会話は続く。

私も皆のいるところまで質問に行きたいが、通らねばならない机と机の間は狭い。私は意を決して自分なりの最大ボリュームをふり絞って前方へ声を掛けた。

「先生、質問なのですが」

学生たちが一斉にこちに顔を向ける。先生が、何ですか、と振り向いた。

「車椅子で前に行けません。それに、私は大きい声を出し続けるのが難しいのです」

先生と学生たちが、私の近くまで移動してきた。

モヤモヤと考えてきたことを先生に質問する。それは哲学からでなく障害者の歴史の方からアプローチした方がよいとアドバイスを受けた。そんな研究もあるはずだと。自分の中に興味を持てるテーマが出来たことに少し嬉しくなる。

学生たちの雑談の中でこんな話が出た。哲学を学んでいると周囲にいうと、そんなものやって何の役に立つのかと、必ずと言っていいほど言われるらしい。大学の数学科出身という年配の学生が、それを言われるのは数学の方だよと笑った。

「哲学が何の役に立つのかだって?」私は思わず吐き出しそうになった言葉を飲み込む。私にとって哲学を含むあらゆる学びはとっくに切実な“自分事”なのである。

もっとマシな人間になってから死にたい。このままでは死ねない。死に至る病の当事者となり車椅子女として生きて、私は、ものの見方は一つではないことを知ってしまった。この世界は知るべき事だらけで、私に関係のない事なんて一つも無い。知ってるフリも曖昧な理解も、いい加減もうやめたいのである。私に残された時間は短く、世界は悠遠だ。


大学の事務の人が教室のプロジェクターを片付けに来たのをきっかけに、ヘルパーさんが荷物をまとめ始める。私は先生に礼を言い、じゃあお先に、と学生たちに伝えた。

帰り道、電車のホームから見上げた空は濃い水色に晴れていた。
ある平日の午後の話。


書くこと。生きること。:Hiromi's Blog

書くこと。学び、考えること。難病ALSに罹患し、世界や自分のあり様を疑う戦慄の時間。生きた証として書いていきます。 satohiromi.amebaownd.com/