こっちとそっち

「こっち」という言葉が嫌いだ。
「こっちに来て」のように空間的な場所を指し示す言葉として使われるそれではなくて、自分、みたいな意味で使われるやつが、私は嫌なのだ。例を出すなら「こっちは迷惑してるんだよ」とか「そっちがその気なら、こっちにだって考えがあるんだ」とか、そういうときの「こっち」である。
自分や自分が立つ側を意味する「こっち」を誰かが口にするとき、それは同時に「こっち」ではない側=「そっち」や「あっち」が意識されているときでもある。
「こっち」側と「そっち」側を分断する境界線は気まぐれで神出鬼没だ。話をしている相手が突然自分を「こっち」と称し始めたら要注意である。「こっち」側にいる自分に対して「そっち」側に私を対峙させ、まるで敵対するような態度を取りださんとする予兆だからである。「そんなこと言われても、こっちにしてみたら…」のようなやつで、私はそんな言いようを耳にすると、思わず、それを言う人の「こっち」側(私にとっての「そっち」側)には私の気づかぬうちに一体どれだけの数の人が存在し、私に対して敵対的な構えを向けているのだろうかと恐ろしくなる。
一方、気持ちや思考や経験などをまったく私と共有しない人が、いつの間にか私と一心同体に何かについて共感し合い共有し合っているかのように「こっちは納得いかないよね」などと、私が思っても頼んでもいない架空の連帯の事実みたいなものを私に断りもなく第三者に対して表現し始め、驚くことがある。突然始まってしまった覚えのない「私」という範囲の拡張に、私は狼狽し、警戒する。都合の良い時だけ私の当事者性みたいなものに潜り込んで、そのような事実もないのに「こっち」側であることを標榜する人たち。そんなときはもう耐えられなくて、車椅子ごと飛び上がり「一人称で話して!主語を誤魔化さないで!」と叫び出したくなる。私は自分のいる場所に対して「そっち」側なんて設定したくはないし、「こっち」なんて主語の範囲を曖昧にふやかして、立場や文責や私との一体感や、そんなものを利用したいときだけ私の元から持ち出して自分と絡めて第三者に対し演出されたくなんかない。私個人の意見や感想や経験や、とにかく私に属するものを自分と共同所有しているなんて嘘をつかないでほしい。自分という一人称を主語に据え、そこから語れることだけをなぜ語ろうとしないのか。
少し声の出づらくなった私から乱暴に取り上げられ、拡張され歪められ無断で利用される主語と、恣意的に引かれる「そっち」側との境界線。「こっち」は狡い。だから私は嫌悪するのである。

書くこと。生きること。:Hiromi's Blog

書くこと。学び、考えること。難病ALSに罹患し、世界や自分のあり様を疑う戦慄の時間。生きた証として書いていきます。 satohiromi.amebaownd.com/