アテンション・プリーズ

空港の搭乗口。
車椅子の旅客たる私は、いつでも待合席で今か今かとその時を待つ搭乗客たちの、恰好の暇つぶしのネタとなる。
あんなに大きな車椅子でどうやって飛行機に乗ろうと言うのか。なぜあんな人ばかり最初に案内されるのか。ああいう迷惑な人たちがいるから、自分たちが余計に待たされているのではないか。
そんな声が今にも鳴り響いてきそうな好奇の目を一身に浴びて、それでも一切何も気にしていないという風を装うことができるようになったのは、いったいいつ頃からだろう。空港の優先席が本来的な意味で優先されることはまず殆どない、ということを思い知らされるようになった頃からだろうか。

航空機内での移動にも車椅子が必要な私は、たとえエコノミークラスのチケットしか持っていなくても一番初めに機内へと案内され、そして目的地への着陸後は一番最後に機外へと連れ出される。
目的地へ到着しても一向に席を立とうとしない私は、周りから迷惑な客だという目で見られることが多い。そんな空気を感じたときは、自分が車椅子での案内を待っていることを周囲に説明し、納得してもらう。
「なぁんだ。そういうこと」というような反応は3、 40代の男性に多い。初対面の年長者に向かってする口の聞き方ではないと思いながら、女というだけでナメてかかられるこの世界に心の中で中指を立てる。もし私が男だったら喧嘩になっているだろう。いや、そもそも彼らは、50代男性に対してそんなこと決して言わないに違いない。

そろそろ搭乗ゲートが開く、という時刻。
航空会社のスタッフが笑顔で私の方へと近づいてくる。いかにもベテランスタッフという風情の女性。余裕ある微笑みを浮かべながら、私にこう挨拶をしてくれた。
「本日、車椅子を担当します〇〇です。ご搭乗までご案内します」
私が返事をするかしないかのうちに、作業ウェアの男性が2人、こちらに近づいてきた。手には梱包材やらテープやらを持っている。電動車椅子のメインスイッチの切り方は?梱包の際に注意すべき点は?バッテリーは取り外しできないと聞いているが本当か?…私は質問に一つ一つ答えながら、車椅子を移動させる際の手順やコツなどをいつものように一通りレクチャーする。私は家族の手で、自分の電動車椅子から搭乗用の車椅子に乗り換える。目的地で再び愛機に無事会えることを心の中で祈りながら。

ここまでの一連の流れの中で、私は1つ言わねばならないことを自分の中に確信した。今、ここで。機内へと私が乗る車椅子が押し動かされてしまう前に、どうしても伝えねばならない。

「あの」
「なんでしょう」
「先ほどあなたは、ご自身を『車椅子担当』であるとおっしゃっていました」
「はい、そうです」
「あなたは『車椅子』の担当なのでしょうか?それとも『車椅子を利用する客』である私の担当なのでしょうか?」
「はい?」
「お見受けしたところ、『車椅子』の担当は先程の作業着の方達だったようです。あなたは『車椅子を利用する客』の担当のはずです」
「はい」
「私は『車椅子』ではありません。もしかしたらあなたたちは私のことを陰で『車椅子』と呼んでいるのかもしれませんし、陰で私をどう呼ぼうと勝手ですが、あまり客に対する呼びかけに使うべき言葉ではないと思われます」
「いえ、そんな」
「あなたはご自身のことを、例えば『白杖担当』であるとか『義足担当』だとかいうように、それを使ったり装着したりする人に対して自己紹介をされることはまずあり得ないと思います。同様にあなたは『車椅子担当』でもないと、私は思います」
「はい」
「うるさいことを言うようですが、お伝えしておかねばならないと思いました。お忙しいところ、ご容赦ください」

女性スタッフは、航空会社の機内用車椅子に私を乗せながら、機内へ乗り込むドアの手前まで車椅子の持ち手を握ったまま丁寧に歩みを進めると、小さいがしっかりした声で、私の目を見ながらこう言った。
「先程は大変失礼しました。ご指摘ありがとうございました。以後、気をつけてまいります。それでは、よいご旅行を」
「受け止めてくださり感謝します。では」

航空会社のスタッフたちの手によって車椅子のまま機内への段差を大きく1段乗り込むと、いつものように両の肘掛けが外され、狭い通路も移動ができるような細い細い車椅子に変身する。シートベルトをつけられ、手足が通路脇の座席にぶつからないよう乗務員の方に守られながら、予約したはずのシートへ案内され、無事着席する。ホッとするのもつかの間。座席脇の通路を他の乗客たちが足早に乗り込んでくる。私もああして歩けた頃は、自分のすぐ近くの席にいるかもしれない車椅子ユーザ-のことなど、一顧だにしなかった。自分に見えている世界が世界のすべてではないし、この世界の正しい見方であるかどうかも、わからない。多分それはずっと、本当にはわからないのだと思うけれど、わからないということを認め、それでも諦めず自分の頭で言葉で考え続けることだけが、“正しさ”の最も近くにいられるために唯一出来ることなのだとも思う。

隣の席の男の子が、お守りがわりに小さな手首につけていた輪ゴムで遊んでいるうちに、どこかへ飛ばしてなくしてしまったらしい。今にも泣きそうな男の子と、その足元に這いつくばって輪ゴムを探している乗務員さんたち。この年頃の子が喜びそうなシールやカードの1枚でも持っていないかと、私は自分のバックに手を突っ込んでみたが、こんな時に限ってそれらしいものは入っていなかった。ゴメンね。でも、きっといい旅になるよ。

暑過ぎる夏の、ある日のこと。

書くこと。生きること。:Hiromi's Blog

書くこと。学び、考えること。難病ALSに罹患し、世界や自分のあり様を疑う戦慄の時間。生きた証として書いていきます。 satohiromi.amebaownd.com/