私よ、どこまでも自らを疑え。

自分の手と言うのはオールマイティーです。それが自分のものであれば、もしかしたらここ半日ほど石鹸で洗った記憶のない手であっても、自分の顔を触ったり、ちょっとしたお菓子をつまんで口へ運んだりすることくらい、それほど躊躇なくできます(私の場合。以下同様)。しかし、他人の手では、そんなわけにはいきません。よくよく洗ったはずと十分に信じられる誰かの手であったって、顔を触られたり、お菓子を口に入れられるのは気持ちのよいものではありません。しかしこれらは衛生面を考えたとき科学的に正しい感覚とは言えないのではないでしょうか。手というものは、誰のものであったとしても日常生活の中にあってとても汚れやすい。常にたくさんのものに触れており、様々な雑菌やほこりや汚れがすぐに付着してしまう。自分の手だからといって、他人の手と比較して常に大して汚れていないかのように感じ、それとして振る舞うことは理にかなっているとはいえないでしょう。

私はこのことと、自らの主張や意見を自らのものであるが故に、ただそれだけを根拠に感情的にそれが正しいと思ってしまったり、考えたりしてしまうことは、どこか似てるなと思うのです。自分の手が自分のものであるが故に、そのことを根拠に清潔で汚れがないと信じ込み受け入れてしまうエラーと、他の誰のものでもない、自分自身の考えであるというだけで正しく間違いがないと思い込んでしまうことは、どこか似ている。自分のものである、というただその一点において、科学的なエラーも論理的な矛盾も超越することができてしまう。

さらに自分というものを、自分の居住する国や地域とか、自分の所属している集団やコミュニティーとか、自分がアイデンティティーとする属性とか、そうしたものに拡張させるのはいとも簡単です。例えば日本人であるから、男性であるから、高学歴であるから、自分は善良で賢く間違えることなど無い、というような単純な“信念”は、弱くて不安な私たちを安心させ、勇気付けます。自分の手であるが故に清潔である。そしてその理屈は、その逆もまた容易に成立させてしまいます。自分でない者、われわれでない者たちへの偏見や差別であり、われわれではないのだから正しいはずがないという排除の論理です。さらにそこに何か1つ、それを証明するかのようなわかりやすい“それらしさ”が加われば、さらにその“信念”は完璧なものとなります。切り取られツギハギに縫い合わされたフェイクたちや、不安なあなたを確証バイアスの白昼夢に誘い込む親切なアルゴリズムが、まさにあなたがあなたであると言うその1点おいてどこまでも肯定すべく機能してくれるでしょう。

然程、私たちは間違えやすい。私よ、どこまでも自らを疑え。


書くこと。生きること。:Hiromi's Blog

書くこと。学び、考えること。難病ALSに罹患し、世界や自分のあり様を疑う戦慄の時間。生きた証として書いていきます。 satohiromi.amebaownd.com/