真っ赤なハイヒール
告白する。
本当は、私は、人にまったく興味がない。
そして、きっとたぶん、誰のことも本当には信じていない。
facebookはメッセンジャーの利用以外、停止してしまった。このSNS、個人間のコミュニケーションを目的とした道具は、私には向いていなかった。
facebook上の誰の投稿も、私は特に読みたいと思わない。それが著名人でもいかに身近な友だちであっても、だ。誰がどんなイベントに参加しようと夕飯に何を食べようと、仲間と飲み会で楽しもうと部屋の模様替えをしようと、私は全くもって興味が無い。
自分の投稿にいただいたコメントに関しても、気の利いた返信をしなければという義務感ばかりが先行してしまって、そのやり取りのほとんどが私には負担だった。誰かとの間に思いがけず発生してしまった(発生させてしまった)何かを成立させるために、相手を中程度くらいには満足させ、人間関係を可もなく不可もない程度に維持させるために、自分のものでない言葉を必死で捻り出し恐る恐るエンターキーを押す行為。それは私にとって苦行でしかなく、唯々、残り少ない時間の浪費にしか感じられなかった。
時にはfacebookにログインするのも億劫になりコメントにも返信しなかった私だが、驚くことにそんな私を責める知人もいたりした。そんなルールいつから出来たんだよと私はそのやり取り自体に疲れ果て、返事をしようがしまいがそんなの私の勝手だろうと言い返して放っておいた。
なんだ、自分では投稿しているじゃないかと言われてしまいそうだが、それは日々の生活やプライベートに触れるようなものではなく、何かの必要や義務や誰かのためと言える範囲での告知や報告だけにしようと決めていた。また、2年前にALSに罹患したことを公言してからは、少しでも病気のことを知って欲しいとか、同じように病気と闘う人が目に留めてくれたらなどといった動機から、車椅子での日常を伝えたり、少しは自分の内面を出したりするような投稿を自らに課してみたりもした。
でも結局は、誰かの規範を気にしてしまうような、「みなさん、こういうヤツがお好きなんですよね」という程度に納めようとするオーディエンスを意識した内容ばかりに終始してしまい、クソみたいな言葉しか吐き出せない自分が嘘つきで意気地なしなだけの人間だと毎回毎回確認するようで、嫌で仕方が無かった。今考えれば、コミュニケーション・ツールなのだから当たり障りのない内容で十分なのだろうけれど、不器用な私にはそんな割り切り方もできなかった。
中でも私が腐心したことは、タイムラインとやらに自動的に表示されてしまう、誰かの、人の投稿を出来るだけ読まない、ということであった。そうしたものをうっかり一瞬でも目にしてしまおうものなら、その投稿の一文字一文字に、写真に、行間に、溢れ出て止まらない「自分に構ってほしい」という眩しいくらいの強烈な衝動と、自己愛と、承認欲求と、「救われたい」というどうしようもない願望みたいなものに触れてしまったような気がして、グラグラと眩暈がした。
そして同時に、そうではなくて、自分の中にそういった不潔でいやらしい欲望があるから、単なる日記のような文章や日常の何気ない報告なんかをいちいち意地悪くそんな風に読み取ってしまうのだろう、己だってヘタクソな自己演出と欺瞞に満ち読むに堪えないようなみっともない投稿を繰り返しているじゃないかと、最後には返す刀で自分自身もズタボロになった。
誰かの私に対する思いやり溢れるコメントのほとんどは、大変申し訳ないが「死にかけているカワイソウな病人を気遣うイイ奴」として完璧に自己プロデュースされたそれにしか読めないことが多かった。私の遥か頭上からぶっこまれる誰目線のものかわからないアドバイスや(私のことを十代の女子と勘違いしているとしか思えない)、「わかります」「理解してます」的な、もう聞いた瞬間に理解されているなんて一瞬も感じられない発言とか、「ここまで最低に不幸な奴と比較したら自分はまだマシだ。ああ自分でなくてよかった」という隠し切れないワクワクなんかを向こう側に想像してしまうような言葉なんかに、私は独りで勝手に負傷し言葉を失って、返信をするどころか画面を見続ける気力すら消え失せ、うなだれてへなへなと座り込んだ。
でも結局は、自分の心がぐっちゃぐちゃにねじ曲がっているから、真っ直ぐで透明な善意の言葉をそんな風に読み取ってしまうのかもしれないと、また自己嫌悪の爆弾がチラチラし始めて、はい、もうごめんなさい。こうなったら、プルプルと震えながらくまのプーさんのぬいぐるみを抱きしめて布団をかぶるしかないのだった。
たぶん、こうしたコミュニケーション・ツールというのは、人にまったく興味の無い、人間不信がこじれ切っている私のような者が上手に利用し楽しめる類の道具ではないのだ。いくら多数にとって魅力的なツールであっても、たとえば真っ赤なハイヒールのように、私には不要だった。自分にも他人にも嘘をつき続け「自分の影」を投影し、演出し続けなければならない空間。私はそこでそんな風にしか、存在できなかった。
こんなシンプルな結論に、私は満身創痍、さんざん苦しんだ挙句に、やっと至ることができた。
今、私は自由だ。
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