白い雲のように


私は死を目前にした今でも、「どうしてもしたいこと」って、こうして書くことを除いてしまえば、実はほとんど何もない。勉強したいとも思い続けているけれど、直接それが好きというよりも、勉強をして死ぬ直前まで昨日とは違う更新された自分になり続けたい、何もわからないまま死にたくないという思いからであって、きっと勉強そのものがしたい訳ではない。またそれもどれくらい切実かといえば、正直もうすぐ死んでしまうという現実を前にその虚無感に打ち勝てるほどの衝動ではないのかもしれません。

でも一つだけ。叶うなら、旅がしたい。いろいろなところへ行って、知らない空と、知らない景色を見てみたい。書くこと以外の願いと言えばただそれくらいなのですが、自由に動かない身体で、しかも今の状況下では なかなか難しい。何というか、極めて残念です。

映像や写真や文章でも知り得る豊かな<世界>はあります。でも実際にその土地に立ち、風の音を聞き、空気を吸って、歩いて迷って言葉を交わすことで得られる情報量は圧倒的で膨大です。

地面の凸凹や、屋台から漂ってくる美味しそうな匂いや、家路につく子ども達の笑い声や、見たことのない店の看板や、そして街の向こうの、夕焼けに映える山の稜線など。ガイドブックに無いそんな風景が実は一番の、旅の思い出だったりします。


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もう20年も前の話です。

中国・雲南省の、ナシ族の人たちが多く暮らす町でのこと。


表通りからは見えづらい場所にある、使い古した油と砂ぼこりの混じったような独特の匂いがする、現地の人たちで賑わう市場。側溝に溜まった、お世辞にもあまり清潔とは言えない水で、しゃがみ込んで青菜を洗う数人の小さな子どもたちがいました。脇にはいくつか笊が置いてあり、その上には青菜が山積みにされていて、後方には、檻に入った食用らしい黒くて大きい痩せた犬がいました。ぐるりとあたりを見回すと、屋台に並ぶ見慣れないさまざまの野菜と、シャツやたわしやサンダルなどの日用品と、味が想像できない色のジュースを面倒くさそうに売る若い女性。凸凹したレンガ造りの建物が強い日差しを斜めに遮り、市場全体がコントラストの強い絵画のような光景を作り出していて、当時フィルムカメラが趣味だった私は目にするもののすべてに好奇心をわしづかみにされ、目の高さにカメラを構えないようにしながら手元で目立たないように何度もシャッターを切りました。


その町の人びとはいつも穏やかに笑っているような印象で、少し日焼けしていて日本人によく似た顔つきをしていました。町は標高がとても高い所にあるので涼しいけれど紫外線が痛いほど強く、旅行者の私はとても日傘なしでは歩けない。濃紺の空。そして不自然すぎるほど空の低い位置にぽっかりと浮かんでいる、白い雲。そこではプーアル茶や花の蕾そのままのような形のお茶が広く飲まれていて、人びとは瓶にお茶の葉とお湯を入れて持ち歩いていました。私にはそれがとてもカッコよく見えて、真似をして瓶と茶葉を買い求め、お湯を注いで得意満面に持ち歩きました。


私はガイドブックで、ナシ族の「働き者の七つの星」の話を読みました。ナシ族は女性優位の社会で、家長も女性。あらゆる物事を決めるのは女性が中心で、しかも女性たちはとても働き者だと知りました。その働き者の女性たちを誇り、敬意を表す意味で、彼らの民族の衣装には「星が見えるまで働いている」ことを示す七つの星(北斗七星)の柄が縫い込まれているのでした。まだ小さな子ども達を抱えて目の回るような毎日を過ごしていた私は、この話が何だかとても嬉しくて、彼らに少しでも近づきたいような、そんな気持ちでナシ族の伝統的な柄の織物を自分への土産に買い求めました。私はきっと、自分の毎日が、認められたかったのだと思います。


道端のパン屋のショーケースには、金属のトレーに並べられた、オイルに浸ったパンが売られていました。一つひとつ美味しそうに焼きあがっているのですが、持ち上げるとポタポタと油が落ちてくるようなパンで、おやつにと何度か買い求めてみましたが、こればっかりは油っぽ過ぎて最後まで舌に慣れませんでした。白状すれば、パンだけでなくすべての食事が私には少しばかり油が強いように感じて、あまり馴染めずに参りました。そして旅の最終日には、町の中心部にあったケンタッキーフライドチキンがどうしても食べたくなって、飛び込むように入りました。日本で食べ慣れたそのフライドチキンが、この地で一番 油っ気のない、あっさりした食べ物だと思えたからでした。


当時まだ小さかった息子は、標高が高すぎてパンパンに膨らんだポテトチップスの袋を抱え、買ってもらったアイスクリームを舐めながら、それなりに旅を楽しんでいるようでした。彼はいつものように、土産物屋に売っていた小さくて素朴な作りの木刀を欲しがり(なんで男児はこうも刀を欲しがるのか)、当時確か10元だか15元と店員に言われたのを、私は「高いなぁ」と言って何とか値切り、息子に買い与えました(数年後息子に「あんな所で値切るなよ」と叱られました)。


夕飯にと入った定食屋。注文を済ませると、若い女性の店員が 娘の持っていた『クレヨンしんちゃん』のコミックに目を留めました。興奮気味に「見せて!」と言う定員に求められるままに娘がそれを手渡すと、その若い女性店員は他の店員たちも呼び集め、「日本語だ」などと言いながらみんなで愉快そうにページをめくり始めました。突然漫画を取り上げられてしまった娘の面食らったような顔と、若い店員たちの楽しそうな笑い声。夕暮れの田舎町の小さな定食屋で、遠くの地に住むもの同士の間にあった建付けの悪い壁のようなものがポイっと無くなる小気味いい時間。食べたメニューは忘れてしまったけれど、定食屋の壁に取り付けられた小さなテレビのブラウン管には、確かサッカー中継が流れていたのを覚えています。


滞在何日目かに、町の小さな旅行社で夫がバスツアーを申し込みました。カウンターの若い男性スタッフとの、漢字とわずかな英語混じりの筆談。漢字ってしみじみ偉大だ。私たち家族は無事にツアーを申し込み、翌日から二泊三日で香格里拉へ向かいました。


日本人はうちの家族くらい。あとは地元のお客さんで満席のツアーバスは、車幅ギリギリくらいの、もちろんガードレールなんて無い崖っぷちのような狭い山道を、スピードを落とすことなくグングン山奥へ。頭がバスの天井にぶつかるかと思うくらい上下に揺れるので、子どもたちと「ジャンピングバス」と名付けました。


バスツアーで一緒だった人たちは、小さな子どもを連れた珍しい日本人の家族にいろいろと気を配ってくれました。前の席の年配の女性に日本語で話しかけられ、私たちが突然のことに驚いていると、同行していたお孫さんらしきお嬢さんも「おばあちゃん、日本語わかるの?」とびっくり。女性はうちの娘の『クレヨンしんちゃん』を「見せてごらん」とばかりに手に取ると、吹き出しの日本語をスラスラと読み始めました。一同「おお!!」。「習ったからね」と自慢げな女性。女性の中の歴史を思いながら、狭いバスの中で時間と空間が深く濃く広がっていくような、そんな気がしました。


夕暮れ近い頃、バスは、山に暮らすチベット族らしき服を纏った家族の荷馬車とすれ違いました。馬車には家財一式というくらいの山盛りの荷物が積まれていて、確か えんじ色っぽい布のようなもので一部が覆われていました。馬車は、バスとすれ違いざまに少し荷崩れを起こしました。ヒヤッとして窓から成行きを見守っていると、バスから降りた運転手と馬車を操っていた男性が何言か言葉を交わしました。短い話し合いが終わると、男性は馬車の積み荷を整え始め、そのあとは何もなかったように馬の手綱を引いて出発しました。バスもゆっくりと、走り出しました。荷馬車とバス以外には見渡す限り人けのない、高い高い山奥でのことです。


香格里拉ではチベット寺院を訪れ、寺院内を見せていただきながらマニ車を回したりしました。寺院の裏手には山吹色や朱色の僧衣を肩からかけた若い僧侶たちがいて、何かの作業の最中なのか、楽しそうに笑い合っていました。ここには私たちのように観光で訪れる人だけではなく、一生のうちの多くの時間をかけ、大事なものを抱えて遠方からお祈りに訪れる人たちもいて、薄暗いお祈りの空間には、人びとが床に頭をつけている姿がありました。私は、ここは自分のような者が来てはいけない場所なのだと思いました。何も考えず何も知ろうとせず、無邪気な好奇心だけを免罪符に誰かにとって大事な場所へ乱暴に足を踏み入れてしまったことが申し訳ない気がして、私は自分自身を、軽率で愚かな人間だと思いました。


香格里拉では娘と息子が、広大な湿原を引馬で歩きました。現地の、まだ小学生くらいの子ども達が民族衣装を纏い、父親らしき人と一緒に威勢のいい声で観光客に声掛けをしていて、それではと馬に乗せてもらうことにしたのでした。馬に乗る、客の子どもと、それを引く、確かな足取りの子ども。地平線の向こうまで続く、広い広い湿原。雲の切れ間から注ぐ陽の光が薄いカーテンのようで、エメラルドグリーンの山々を背景にそれはもうすべてが美しく、自分の見ている光景が人の暮らす世界のものではないように感じました。


土産物屋では思いがけず日本語の堪能なチベット族のお嬢さんに出会いました。日本には一度も行ったことがないと言う、そのお嬢さんの日本語がとても流暢で上品で、私は、いつかぜひ日本へ来てくださいと言いました。そしてそう言いながら同時に、もし彼女が本当に日本を訪れてしまったら、彼女はきっと何かにガッカリしてしまうのではないだろうかと少し余計な心配をしました。パンチェン・ラマの肖像画が、あちこちの建物で掲げられているのも目にしました。道中、すれ違うマイクロバスの土で汚れた窓に「昆明」などと書かれたプレートを見つけたりすると、あのバスは一体何時間の旅をするのだろうと想像し、目で追いました。いつか自分も、もっと広く遠く、旅がしたい。


香格里拉への旅の、最終日の午後。山深い帰り道。突然バスが停車して、運転手がバスを降りてしまいました。何が起きたのかと窓を開け外を覗くと、おもむろに工具を取り出してきてタイヤを外し始める運転手。どうやら故障のようで、だんだんと修理は本格的になってきて、他の乗客も「仕方がない」といった態で外の空気を吸うためにバスを降り始めました。私は「この様子だと、この峠道で夜を越すことになるかも」とドギマギして、リュックの中に残っている食べ物や飲み物を数えました。結局、1、2時間ほどの修理の末にバスは無事に走り出しましたが、「まぁ、なんとかなるさ」と気を取り直し のんびりと修理作業を見守ることが出来たのは、お菓子を食べたり周囲を散歩したりしながら緩やかに時間を過ごすまわりの乗客たちの笑顔に慰められたからでした。こんなハプニングもすべてが新しく面白く愉快な気がして、そうすればいいのだと、今では学んだ気がします。


山を下り、もうすぐ町に帰り着くというとき、バスの窓から町が見えかけたところで誰かが言いました。「虹だ!」。町の上の紺鼠色の空に、きれいな虹が静かにかかっていました。その瞬間、ナシ族の人たちが暮らすその町が、私にはまるで生まれ育った故郷のように感じられました。


たぶん細かな戸惑いや苦労は山ほどあったのだと思います。けれども、いえ、だからこそ、今となれば何もかもが眩しいような思い出です。


さてこんどは、何処へ行こう。



書くこと。生きること。:Hiromi's Blog

書くこと。学び、考えること。難病ALSに罹患し、世界や自分のあり様を疑う戦慄の時間。生きた証として書いていきます。 satohiromi.amebaownd.com/