青春
一日に食べるものは、コンビニで買った菓子パン一個。
そう確かに、私はお金がありませんでした。けれど、それしか食べなかったのはそんな理由からじゃない。
それは私が、「食べ物を食べる価値などない」人間だったから。
***
短大に通っていた、18から19になる頃。
私は実家を出て、電車で20分ほど離れた親戚の家に世話になっていました。
なぜ、この中途半端な距離の親戚の家にわざわざ実家を出て世話になっていたかと言えば、表向きには、私が猫のアレルギーをこじらせたから飼い猫から離れた方がいいとかいうのが理由でしたが、本当のところはと言えば、私が実家にいたくなかったのと、たぶん家族が私を家に置いておきたくなかったという理由からでした。そんな丁度等分ずつくらいの、ぐずぐずと怠惰な思惑の果てに、互いに面倒で向き合いたい相手でもないからとそれぞれの利害が一致して、これといった理由も荷物も殆ど持たないまま、私は実家を出たのでした。
貧しさと臆病と愚かさを長いこと焦げ付かせてきた私たち家族にとって、猫ではなく長女の私がいなくなるという結論はあまりにも当たり前で、疑問を抱く余地のないものでした。
親戚の家は大きく立派な造りでしたが、子どものいるような賑やかな家庭ではなくて、私は親戚らと一緒に食卓を囲んだり何か団らんのような時間を持ったりというような時間もないまま、毎晩アルバイトから帰宅するとすぐに玄関を入ってすぐの階段を二階へ上がり、与えてもらっていた部屋に閉じこもっていました。
今となれば、世話になっていたのだから家事を手伝うくらいのことをすればよかったとも思うのだけれど、私は、人とのそうした基本的な関わり方や立ち振る舞いのようなものを躾けられないままに身体だけ大きくなっていた木偶の坊で、でも私はここにも、自分がいることを許された場所はないということだけはよく心得ていて、いつも、少し困ったような、少し笑ったような顔をして過ごしていました。
私は部屋での時間の殆どをゴロゴロと寝て過ごしました。そこはあまり陽の入らない こげ茶色の板の間の部屋で、棚や箱などがたくさん置いてありました。私は部屋の真ん中あたりに辛うじて空いているスペースに布団を敷き、その上でノートくらいのサイズの小さなテレビを観ながら、特に何をするでもなくいつも横になっていました。そこには、甘えてすり寄ってくる猫もいませんでした。
親戚とは日常会話のようなものすら殆どないまま、日が経っていきました。次第に私は、夜になると当時付き合っていた彼氏の部屋に遊びに行ってしまうようになり、そのまま翌日まで帰らないというようなことが続きました。
私はあの頃、たぶん52キロくらいの体重だったと思います。今考えれば十分に、健康的な若い女子のそれの範囲だと思うのですが、私はいつからか、この自分の体が、無駄に重たく、鈍く、だらしないだけの柔らかい塊のように感じるようになっていました。
そして私は、食べることが怖くなっていきました。食べるから、こんな風に、何もできないくせに意味なく重たいだけの気色悪い塊になってしまうのだ。私は一人前にものを食べたりする価値などない人間なのだ、と。
私は食べるのを止めようと思いました。そうすればきっともっと細く身軽になって、今はこうして無駄に息を吸い存在しているだけの私も、もうだらしなくぼたっと重たい塊ではなくなって、周りの人たちと同じように普通に生きていいくことが許される程度の、人並みくらいの価値のある人間に、なれるかもしれない。
食べないでいることは簡単でした。手元にいつも僅かしかないお金をこれ以上使わなくてもよい訳だし、私には囲むべき食卓もない。私は自分に、一日に食べていいのはコンビニで買う菓子パン一個、それ以外にどうしてもお腹が空いたときは、安売りの野菜やキノコなどを買い求め、台所に誰もいない時間を見計らって、茹でたり焼いたりして食べようと決めました。
勤勉な私の体重は、みるみる減少しました。お気に入りのスカートもスタイルよく履けるようになり、きつかったジーパンも、ウエストや腿の周りに余裕が出てきました。私は自分が、生きていても許される人間に、街を普通に歩いている人たちくらいに価値のある人間に、少しずつだけれど近づけている気がしました。私は嬉しくて、ますます食べないでいようと固く心に決めました。
腕も足も胴も細くなり、いろいろな服が自分の思ったように着られるようになって、「痩せたね」なんて言われるともう嬉しくて、外出している間、私の気持ちは高揚しました。髪も伸ばし始めたのも、今までと別の自分になりたかったからでした。
食べずにいればいるほど、痩せていけばいくほど、私は許されていく。
どのくらい経ったころか、私はだんだんと、夜眠ることができなくなっていきました。どんなに夜更かしして布団に入っても、毎朝きまって、新聞配達の人が来る前には目を覚ますようになっていました。私は日に日に体中の力が入らなくなっていくような気がして、布団の上でじっと仰向けになりながら過ごす時間が増えました。私は部屋の天井を眺めながら、薄く骨ばっていく自分の体が、背中の下の布団とひとつになっていくように感じました。
さらに体重は減り、ますます体は薄くなって、頬もこけていきました。春休み明け、ダボダボになった服を着て学校へ行くと、友人たちは驚いて口々に、一体どうしたのか、何があったのかと私に尋ねてきました。当時の私はすでに体も頭も正常に機能しなくなっていて、友人たちがしきりに何を言おうとしているのかわからないまま、自分だけが今まで通りと思っている笑顔を友人たちへ向けていました。お昼の学食で私は友人たちの中で一人、ブラックの缶コーヒーだけを買って、それが当然であるかのように飲んでいました。
この頃から私の体には、はっきりと異変が起き始めていました。いくら手入れをしても髪の毛がボロボロに切れてしまうので、なけなしのお金でシャンプーやコンディショナーをいくつも買い替えました。いつもキーンと耳鳴りがしているようで、夜になると特にそれが激しくなり、だんだんと人の声が聞こえづらくなりました。いつもひどい寒気がして、あくびが止まらず、気が付けば生理もこなくなっていました。
私はこの頃の記憶があまりありません。すべてがひどくぼんやりしていて、常に全身がだるく疲れていたような印象だけが残っています。そしていつの頃かは忘れてしまいましたが、私は親戚の家から実家に戻ることになりました。確か、私が夜遅く出掛けていったり、部屋へ戻らずに外泊ばかりしているとかで、もう管理しきれないと感じた親戚から、実家に戻って欲しいと母親に連絡があったのだと記憶しています。
実家へ戻っても、私は殆ど家族と会話をしませんでした。アルバイトが忙しく夜遅くに帰宅するのですが、またすぐに夜中に家を出たりして、私は、娘に決して言葉をかけることのない父親に、表現し切れない嫌悪感を持て余しているような顔だけを向けられていました。
私は相変わらず、食事らしい食事をとりませんでした。
私は、徹底的に、私自身を疎外し続けました。
ある日の夕方、私は自分の部屋で、立ったまま手足が少しずつ痺れてくるのを感じました。最初は気のせいかと思う程度の手先だけの弱い痺れだったのが、次第に体中に広がっていき、首から下をグルグルと見えないもので縛られたような感じがしてきたかと思うと、あっという間に体の自由がきかなくなっていきました。呼吸も荒く乱れてきて、私は突然バタンと、その場に卒倒しました。仰向けのまま、混濁していく意識の中で、私はこのまま死ぬのだと思いました。
どのくらい気を失っていたのか、気が付くと、倒れている私を取り囲むように救急隊の人たちがいて、皆しゃがみ込んで私を見ていました。するとそのうちの一人が、私の口元に茶色い紙袋をかぶせました。私は驚いて、そんなことをしたら今度こそ本当に死んでしまうと思いました。でも私は倒れたまま全く抵抗できずに、また気を失いました。
私は救急車で運ばれたらしく、気付くと大きな病院の入り口のガラス扉の前で、救急隊の人だか病院の人だかに両脇を支えられてよろよろと歩いていました。もう外はすっかり暗くなっていて、その病院の入り口で私は、立ったまま二度嘔吐しました。空っぽの胃袋からは、胃液らしきもの以外ほとんど何も出てきませんでした。
私はそのまま二晩、入院をしました。私のいた病室は確か6床くらいある部屋で、そこでは、もう長く入院しているらしい年配の女性たちと一緒でした。女性たちは救急で運び込まれた新入りの入院患者のことを気遣って、さりげなく世話をやいてくれました。翌日には彼氏が見舞いに来てくれて、若い二人は格好の冷やかしの的になりました。私は大部屋の中でも廊下に一番近い位置のベッドにいたと記憶しているのですが、大きく明るい窓を背に、女性たちは明るく優しく自然で、私は、こんなに穏やかな気持ちになるのはどのくらい振りだろうと思いました。
退院の日。私の家は病院からバスに15分程度乗らなければならない所にありました。私は入院中もずっと運ばれてきた時と同じ部屋着のままで、着古した長袖の白いTシャツを着て、下は、もう所々生地が薄くなってしまっていて毛玉だらけの黄色いスウェットのようなものを履いていました。退院する日も他に着るものを持たない私は、家までそのままの格好でバスに乗って一人で帰らねばならず、それがとても恥ずかしくて嫌でした。
私は、明るく温かく居心地のいい病室から暗くて冷たい現実へと連れ戻されるような気がしていて、その安っぽくて古くて汚い、恥ずかしい部屋着は、それにぴったりの服だと思いました。
翌年、就職先から給料をもらえるようになっていた私は、実家を出て一人暮らしを始めました。大好きな音楽の影響でずっと憧れていたJR中央線沿いの駅。私はその駅近くの不動産屋でアパートの1階を紹介してもらい、契約をしました。私は家に帰り、一人暮らしをするからとだけ母に伝えました。母は驚いたようでしたが特に何も言わず、私は家を出ました。
それから私の体重は少しずつ増えていきました。食事の仕方や、食べ物への接し方はすぐには正常には戻りませんでしたが、それでも近くのスーパーに惣菜を買いに出かけたり、散歩がてらに雰囲気の良い喫茶店でケーキを食べたり、毎日が楽しく、幸せでした。
***
私は未だに、自分自身を嫌い、疎外することを、完全にはやめられない。自分が自分であるという理由だけで無条件に価値がある存在だなどとは決して思えないままでいる。
それでも確かに、私の生きてきた、その濁った黄土色の時間が、私を作り、こうして今ここに私を立たせている。
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