風切り羽
【和名】ワキコガネウロコインコ
【英名】Yellow-sided Conure
【学名】Pyrrhura molinae hypoxantha
【原産地】南米
飛んでいってしまわないように、手乗りにするためにと、ペットショップで切ってくれた風切り羽。写真にあるブルーの、途中で真っ直ぐに切れている形状の羽根がそれです。
抜け落ちた羽根の代わりに、ウロコインコのハルには新しい羽が生え始めています。
生後2か月という子どものうちに我が家にやってきたハル。すぐに新しい環境にも慣れ、今では体も少し大きくなって(体長25センチほど)、おもちゃで遊んだり水浴びをしたりと、元気過ぎるほど元気に毎日を過ごしています。人懐っこく、とても頭のいいインコです。
朱色の長い尾羽や、ブルーの風切り羽根が抜けてしまうと、ハルはそれらの大きな羽根を片手にガシっと持ち、まるで毛づくろいでもするように名残惜しそうにいつまでも丁寧にくちばしで噛んだり、根元の方をくわえて舌でコロコロと転がし、振り回したりしています。その様子は、クルクル、ヒラヒラとなんだか自慢気で、見ていてとても愉快な気持ちになります。ハルが“羽根遊び”に飽きてしまうと、私はそっとそれを拾い集めます。写真はハルにとって初めて抜け落ちた羽根たちから、大きなものだけを選んで2か月くらいかけて少しずつ集めたものになります。
抜けてしまったところからは、入れ替わりに新しい羽が生えてきます。少しずつ長くなっていくのが外から確認できるものもあって、ハルにも新しい羽が生えてくるのがわかるのかな、やっぱり嬉しいのかしらなどと、ぼんやりと思ったりします。ようするに私は暇なのです。
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ブルーの風切り羽も新しく生えてきて、外からもわかるくらいに長く伸びてきました。あと何枚かで完全に生え変わると思うのですが、こうなると一つの煩悶が生じてきます。新しい羽を切るかどうか、という悩みです。
何枚か生えているブルーの風切り羽のうち、ある決まった個所の羽を切ってしまえば、ハルは飛べないようになります。切らずに自然と生えるままに羽を伸ばせば、ハルは鳥として本来持っているはずの力を使って、自在に飛べるようになります。
ハルの風切り羽を切らなかったとします。万が一タイミング悪く、マンションの開いた窓やベランダなどからハルが外へと飛んでいってしまったら。おそらくもう二度とこの部屋に戻ってくることはできないでしょう。そして生まれた時から人の手でペットとして育てられ、自分で生きる力を持たない南米原産のウロコインコであるハルは、東京の寒さに震え、人も車もひっきりなしに行き交う都心の真ん中で衰弱し、または何かの動物に捕食されてしまうなどして、あっという間に命を落としてしまうことでしょう。
飛べないようにと風切り羽を切ってしまったら。もちろんハルは部屋から外へと飛んでいってしまうことはありません。飼い主の保護の下で、安全に、それなりに快適に、お腹いっぱいに食べて過ごすことができるでしょう。遊んでほしいと鳴いて催促すれば、親バカな私が待ってましたとばかりにケージからハルを出し、手に肩にと乗せて、これまでのように目一杯かわいがるでしょう。
でも、ハルはウロコインコです。本来なら、原産国である南米の、おそらくボリビアとかブラジルとかの大自然にいるべきインコなのに(ハルが生まれ育ったのは東京ですが)、今はこんな極東の島国のマンションで、狭いケージの中で暮らさなければなりません。鳥として生まれてきたならば、きっと思い切り飛んでみたいよなあ、いや、ウロコインコならばやっぱり、南米の太陽と濃緑色の森の中を飛ばせてあげたいなあなどと、思ったりもします。でもそんなことを思う一方で、こんなことを考えている自分が矛盾だらけで欺瞞だらけの女に感じられて、自己嫌悪の穴にスルッと吸い込まれそうになります。
安くない金額を支払ってでも欲しいと思う人間が絶えないからこそ、(特に希少な)動物たちは商品として売買され続けます。地球の裏側で、気候も環境もまったく異なる場所で動物たちが人間に飼育されることは、地球環境の問題などと大きく語りだすまでもなく、もちろん本来あるべき形ではないでしょう。
確かに愛玩用にと人間に飼われれば、たっぷり餌を与えられ、温度や衛生管理の行き届いた場所でしかも他の動物から狙われることもなく、その生き物にとって長く生きていける環境がかなりの高確率で手に入るでしょう。しかしそれを、その生き物にとって「幸せなはずだ」と判断するのは人間の身勝手というものです。そんなもの、人間の理屈次第でどうにでも説明されてしまいます。そして、「幸せなはずだから、それ以上何も考える必要はない」と結論してしまうのは、私たちが意識せずとも陥りがちな、都合の良すぎる間違いなのではと思います。幸せでないと明らかにわかってしまうものからも、私たちはまた都合よく、自動的に、気付かない振りをして目を背けるはずなのですから。
もうずっと以前から世界的巨大ビジネスとなっているペット産業に、インコ一羽の飼い主がわかった風な理屈をこねてみたとしても、そんなものは寝言みたいなものなのかもしれません。実際に私もこうして、それに加担している人間の一人です。でも風切り羽を切るかどうかの決断を迫られ、改めてその意味を考える時、両手に抱えきれないほどの罪を犯しておきながら、小指の先ほどの、飼い主としての都合のいい感傷やハルに対する身勝手な優しさなどと引き換えに、何とかその罪を許されようとしている私自身のセコさを、ズルさを、私は感じてしまいます。気色の悪いズルさです。だから私は、風切り羽を切るという自身の罪のわかりやすさの前に、往生際悪くネチネチと悩むのだと思います。「これじゃあまるで、私が悪い人みたいじゃないか」、と。
私は動物保護団体の人間でも、菜食主義者でもありません。苦手な食べ物はパクチーくらい。それ以外なら何でも食べます。肉でも、魚でも。そんな私が生きていくために、食料として育てられた動物たちはどう考えたらいいのでしょう。食物連鎖の一部として捉えればいいのでしょうか。食用や毛皮用にと、狩猟されていく動物はどうなのでしょう。個人消費ならいいのか。商業用はだめなのか。養殖ならいいのか。希少性が高いとだめなのか。農耕馬や介助犬、サーカスの熊など、人の為に働かされる動物はどう考えたらいいのか。研究用のモルモットは。動物園の動物たちは。クジラ漁は。イルカ漁は。アザラシ猟は。犬はダメで豚はいいのか。残酷だから、頭がいい動物だからなどという、誰が言い出したのかわからないような、でも明らかに人間が言い出したはずの、恣意的な線引きは許していいのか。
ハルだって、私の毎日の時間を十分過ぎるほどに潤してくれていて、そういう意味では私の生活にとって必要不可欠な存在です。ペットのことを「家族」だとか「友だち」なんて言葉で表現してみても、ハルという命を買い取って自分の為に利用しているという現実の前には、ただの詭弁でしかない。かわいがればいいのか。命さえ奪わなければいいのか。フォアグラ用に育てられる鴨と、ハルの命はどう違うのでしょう。人間の衣食や楽しみ、生業のためならそれは仕方がないのか。そしてそれは、本当に仕方がないのか。どこまでが、仕方がない、のか。
動物と人間との歴史は古く、かわいそう、などというインスタントな感傷を振り回す余地などとっくにないのかもしれません。でも確かにそこには考えるべき問題があって、「考えても仕方がない」とか「必要悪だよ」などと、わかったようなことを言っていつものように罪悪感を煙に巻き、逃げてしまうのは間違っていると考えます。
(こうして書きながら、ドラマ『相棒』の主人公、水谷豊演じるところの杉下右京が言っていた、「必要な悪などありません!」というセリフを思い出しました)
簡単に答えが出せないからといって、考えないでいるのはズルい。考えない理由は本当に、簡単に答えが出せないことだけなのか。自分も加担しているからではないのか。そこに何らかの「おかしさ」を感じるならば、自分や誰かの都合で無いことにするのではなく、問いとして辛抱強く抱え続け、誤魔化さずに向き合うべきではないのか。
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今はもうすっかり私の部屋にいることにも慣れて、いつも忙しく餌をついばんだり、遊んでほしくてウズウズと止まり木を飛び移ったりしているハル。寝ている私を起こしたいときにはケージの柵をくちばしでカンカンとやさしく叩き、部屋で一人になり寂しい時には、遠くにいる私を大きな声で鳴いて呼びます。南米での生涯とどちらが幸せだったのかなどと空想してみることに意味はなく、仮にハルに問うてみたところで、「幸セダヨ」などと勝手にアテレコした次の瞬間、私はまた自分の身勝手さに薄ら寒くなって凹むだけでしょう。
暇な時間がさせるこんな考えのいろいろも、結局は飼い主としての、人間としての罪から自分だけがほんの少しでも許されようとしているパフォーマンスのような気がして、それでもおそらく確実に言えるのは、今いるこの場所でハルが一番幸せに生きられるように飼い主として精一杯のことをしてあげるべきだということ。そして、ハルと、その仲間たちのためにも、人間の営みと動物たちのことについて考え続けること。
自分だけを、こっそりとその罪から逃がし、赦してしまわないように。
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