『波伝谷に生きる人びと』


2015年夏に、東京で劇場公開されたドキュメンタリー映画『波伝谷に生きる人びと』。

あらすじは、次のようなものです。


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宮城県南三陸町の海沿いに位置する80戸余りの小さな漁村「波伝谷(はでんや)」。

そこには豊かな海と山があり、人びとは牡蠣・ホヤ・ワカメなどの養殖と丘陵地での農業を営み、暮らしていた。

共同の牡蠣剥き場で明け方から作業をする女たち。

収穫まで3年かかるホヤの生育を祈りながら黙々と海辺に通う男たち。

そこには、自然の豊かさと厳しさに寄り添いながら、地域に残る「結い」や「講」といったシステムを悩みつつ継承し、日々の暮らしを懸命に生きる「普通の」人びとがいた。

2008年3月、そんな波伝谷にカメラを持った一人の若者がやってくる。

はじめ、大学の研究のために波伝谷を訪れた彼は、地域住民総出で行われる獅子舞の行事に心を奪われ、そのエネルギーの源泉に触れようと一人で波伝谷に通い続ける。そのカメラにおさめた映像を、やがて映画にするために。

それから3年後の、2011年3月11日

その日彼は、翌日予定されていた地域の会合で映画の試写会の日取りを決めようと、波伝谷に向かった。

※公式サイト(https://hadenyaniikiru.wixsite.com/peacetree)より

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東日本大震災の後、宮城県南三陸町でボランティアのようなことをさせていただいていた私は、この映画が東京で公開された年の5月に、インターネットで映画の存在を知りました。劇場公開の、3か月ほど前のことです。


「波伝谷(はでんや)」という印象的な名前のついた仮設住宅にボランティアとして一度だけ伺ったことがあった私は、あの場所が映画になっているのかと、とても驚きました。私の中での「波伝谷」は、海岸部からほんの少し内陸の高い場所へ入ったところにあった、こじんまりとした仮設住宅という印象でした。私がお目にかかった「波伝谷の人びと」は、ボランティアである私たちに余計な気を遣わせまいと終始あたたかい笑顔で対応してくださり、東京から押しかけたよそ者の集団を懐深く受け入れてくださる空気をもった、そんな方たちでした。


私はこの映画の存在をインターネットで知ったことをきっかけに、この映画と、映画の監督である我妻和樹さんと深く関わっていくことになります。波伝谷が映画に描かれていることへの驚きや興味、ボランティアとしての衝動みたいなものから、少額だけれど協賛をしたい、という内容のメールを監督宛に送ったことがその始まりでした。


そして私はこの、震災前の南三陸を描いた『波伝谷に生きる人びと』を、スクリーンではなく自宅のDVDで観ることになります。監督とお会いして直接いただいたDVDを、劇場公開前に観せていただけるという幸運に恵まれたのでした。


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『波伝谷に生きる人びと』を観た私は、「しまった」という猛烈な後悔に頭を抱えました。自分の軽率さに、底の浅さに、打ちのめされました。


私はそれまでも、南三陸町には何度もボランティアとして足を運んでいたのですが、その頃の私は「大変なご苦労をされている方たちの役に立ちたい」「できることは何でもしたい」という思いに、ただただ真っ直ぐに突き動かされ、自分にできることはすべてやり切ろうと迷いなく考えている人間でした。東京でも知人たちはそれを応援してくれていましたし、志を同じくする仲間たちも増えていきました。もっともっと、という思いの一方で、私はいつも「自分は本当のところ、役に立てているのだろうか」という拭いきれない不安や焦りと、隣り合わせで活動をしていました。自分が本当は全くの役立たずではないかという思いは、時に恐怖でもありました。


南三陸の人たちはボランティアである私にいつもあたたかく接してくださり、大変なご様子を目にしてオドオドと頼りない私に、時には海産物のお土産まで持たせてくれたりしました。私は自分がいったい何のために存在しているのかと情けなくなることもしばしばで、そんなときには、次に伺うときにはもっと何かやれるように頑張らなくてはと、そればかり考えていました。


『波伝谷に生きる人びと』は135分間の中で、そんな私に決定的に欠けていたものを見せてくれました。それは震災前の、南三陸の、波伝谷の姿でした。映画には、豊かな海の恵みと美しい山の緑とに挟まれた波伝谷という集落に暮らす、たくましく、大きく、人間くさく、ユーモアにあふれた人たちの、土地に根差して生きている姿が、確かな時間が写っていました。


私は、被災して大変なご苦労をされている方々の役に立ちたいと思いはしたものの、その「被災者」の人たちのことを、本当にはまったく知ろうとしていなかったことを、痛いほど思い知ったのでした。私の意識の中にいるのは「被災者」の人たちであって、南三陸の、その土地に暮らす人たちではありませんでした。私は、避難所の、仮設住宅の、その風景の中にいる人たちを南三陸の人たちだと、乱暴にも、浅はかにも、了解してしまっていたのでした。


この方たちが震災以前にどんな暮らしをしてきたかを知ろうとせずに、いったい何へ向けた“復興”だというのでしょう? この方たちが望む暮らしの形を想像しようとせずに、何の“支援”だというのでしょう? この方たちの土地、生業、生活、幸せ、考え方、物事の決め方。私に向けてくれた、言葉の、笑顔の意味。私は、自分が本当には何もわかろうとしていなかったのだと気付き、消えていなくなりたいと思いました。頭を抱えるほどに後悔して、自分を責めました。今まで自分は何をしてしまっていたのだろうと、居ても立っても居られないほど恥ずかしくなりました。


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私はこの『波伝谷に生きる人びと』を、自分の周りの人たちと一緒に観たい、自分の住む町で上映したいと考えるようになり、ボランティアの仲間たちと共に、チャリティ上映会という形で自主上映会を開催します。2016年3月11日のことです。当日は昼夜2回上映で、延べ180人以上が来場してくださいました。上映の前後には宮城から駆け付けた我妻和樹監督にも講演をしていただき、上映会の収益を南三陸町にお届けすることも叶いました。


翌2017年3月には第2回チャリティ上映会として、我妻和樹監督の長編2作目となる『願いと揺らぎ』を上映することになります。我妻監督の新作ということで、区内外から大勢の方が詰めかけ、大変盛況に終わりました。


『願いと揺らぎ』は『波伝谷に生きる人びと』と同様、宮城県南三陸町・波伝谷の人たちが主人公のドキュメンタリー映画です。東日本大震災の1年後を描いています。


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【あらすじ】

宮城県南三陸町の小さな漁村「波伝谷」(はでんや)。その震災までの3年間の日常を追ったドキュメンタリー映画『波伝谷に生きる人びと』から1年後が舞台の本作では、映画の冒頭、荒涼とした波伝谷の風景が映し出される。

 津波によって集落が壊滅し、コミュニティが分断された波伝谷では、ある若者の一声から地域で最も大切にされてきた行事である「お獅子さま」復活の気運が高まる。それは先行きの見えない生活の中で、人びとの心を結びつける希望となるはずだった。

 しかし波伝谷を離れて暮らしている人、家族を津波で失った人、さまざまな立場の人がお獅子さま復活に想いを寄せる一方で、集落の高台移転、漁業の共同化など、多くの課題に直面して足並みは一向に揃わない。震災によって生じたひずみは大きく、動けば動くほど想いはすれ違い、何が正解なのかも分からぬまま、摩擦や衝突を重ねお獅子さまは復活する。

 それからさらに時は流れ、仮設住宅から高台へと居を構え、波伝谷で生きることを決意した若者は、改めて当時の地域の混乱と葛藤を振り返ることになる。

 学生時代に民俗調査で波伝谷を訪れ、2005年からお獅子さまを撮り続けてきた監督が、ともに迷い、もがきながら、それでも復興に向けて歩み続けた人びとの「願いと揺らぎ」を鮮烈に映し出したドキュメンタリー。

※公式サイト(https://negaitoyuragi.wixsite.com/peacetree)より

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そして2018年の劇場公開へ向けて、私はなんとこの作品のプロデューサーを仰せつかります。作品を広めるための「プロデューサー」という訳です。人生はわからないものですね。

『願いと揺らぎ』は私自身の立場的なこともあり、本当に毎日が新しいことばかりで、しんどさと訳のわからなさと使命感みたいなものとで、頭の中がずっと船酔いのような状態でした。

文章にすると大河ドラマなみの量になること必至ですので、この話はいずれまた。



我妻和樹監督の公式サイトおよび作品のサイトです。よろしければ、ぜひ。


◇ピーストゥリー・プロダクツ 公式サイト https://peacetreeproducts2.wixsite.com/mysite

◇『波伝谷に生きる人びと』公式サイト https://hadenyaniikiru.wixsite.com/peacetree

◇『願いと揺らぎ』公式サイト https://negaitoyuragi.wixsite.com/peacetree 


書くこと。生きること。:Hiromi's Blog

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