ちょっといい話
ふふふ。意外だと思ったでしょう。私が、「ちょっといい話」なんて書くはずがないのです。なぜなら私はそういった類の話には触れるのも苦手で、「苦手だ」ということを書こうと思ったのでした。
知人や友人や、誰かと会話をしていて、私の話を聞いていただくような場面があります。普通の会話ですから互いの話をし合っている訳で、どうしても私の話を聞いて欲しいなど改まるようなそれではなくて、世間話など取り留めのない話から派生して、私個人の考えや思いを聞いていただくような、そんな場面でのことです。
日頃このブログに書いているような、今私が考えたいことだとか気になって仕方のないことだとか、おそらく何とも相槌の打ちようのない話を、私の話し相手の方々は辛抱強く聞いてくださいます。それはおそらく、善意か、友情か、同情か、使命感か、そういったものが何割かずつブレンドされた思いからだろうと、私自身は推察しています。
なぜ「辛抱強く」と感じるかと言えば、多くの場合、話を聞いてくださっている人たちは、その顔に戸惑っているような苦しいような困っているような曖昧な表情をうっすらと浮かべているからです。そんなお顔を正面に眺めつつ、慎重に一つひとつ言葉を選び発しながら、私は思います。「ああ、ALS患者が喋っていることだから、カワイソウな重病人の話だから、聞いてあげなきゃと思って仕方なく耳を傾けてくれているのだろう。無理をさせてしまうくらいなら、私自身、苦しい思いをして言葉を吐き出してまで、余計なこと話し出さなきゃよかったな」と。
私という人間の傾向なのだと思うのですが、どのような場面で誰と対峙していても、きっと相手は私にウンザリしているのだろうなと、いつも居場所のないような気持がして仕方がありません。おそらく、目の前にいる人のその表情から察するに、「何を言っているのかよくわからないよ」とか「面倒くさいな」「早く終わらないかな」なんてきっと感じていそうな、そんな気がしてしまうのです。相手の人を困らせるつもりはなかったのだけれどなあと、話し始めてしまったことを後悔しながら申し訳ないような気持ちにもなるのですが、もう途中まで話し出してしまったものだから止める訳にもいかず、複雑な気持ちのままズルズルと何とか最後まで話をしている、そんなような次第です。
そして、話し終えてからふと、数週間前に実際にあった出来事などを思い出したりして、「そうだそうだ、こんなことがあったんですけれどね」といった調子で、私は話題を変えます。「こんな話はいかがでしょう。こちらでしたら、お宅様はお好きでしょう?」なんて、空気を変えなければと、挽回しなければと、おそらく私は必死なのだと思います。
例えば、どこかの駅の親切な駅員さんや、通りすがりのしっかり者でやさしい小学生や、コンビニの気の利いた店員さん。そんな愛すべき人たちと車椅子女との心温まるエピソード、そんなやつです。すると、目の前の知人たちの顔はみるみる晴れやかに、パッと輝き始めます。「そうそう、そういうやつ!」「待ってました!」という、弾んだ心の声が聞こえてきそうです。私がすべて話し終えると、知人たちは口にします。「いやあ、素晴らしい」「いい話だねえ」。うんうん、と噛みしめるように、話の余韻を体に沁み込ませるように頷きます。もしかしたら、「いい話だから、どこかで喋ってやろう」なんて企んでいるのかもしれません。たった今したばかりの話の、その一つ前の話を聞いてくれていた時とは、知人たちの表情は明白に異なって、隠し切れないほどに明るく光っているのが見て取れます。
私は、ほんの数分前に自分が話したはずの、本当は一番聞いて欲しかった話、考えて考えて、身を削って吐き出した私の体の真ん中からの言葉たちが、見るも無残に無かったことになってしまった現実に呆然とします。少し貧弱だけれども何日もかけて一生懸命にこしらえた手作りの工作物が、「ちょっといい話」というパステルカラーのペンキによって上からとっぷりとキレイに塗り覆われてしまったことに、肩を落とします。「ああやっぱり」って。
ええ、私が仕掛けたのです。思いがけず出くわしてしまった、知人らの何とも困ったような微妙な表情を目にして、私の方から差し出したのです。苦みが無くてほんのり甘くツルンと喉越しの良さそうな話を。そうして予想通り、相手は私が後から提供した好物を美味しそうに飲み込んだ、ただそれだけのことなのでした。
もう何度も、嫌というほど経験して十分にわかっていながら、本当に話したいことをうっかり話し、相手に微妙な顔をさせてしまった失敗に、そして予想されながらまんまと肩を落としている自分の愚かさに、私はほとほと嫌になります。「全部わかっていたことじゃないか。そんなものは求められてはいない。黙っていればよかったんだよ」って。
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私は「ちょっといい話」的な話題が苦手です。その話に出てくる、心優しい人々やあたたかいエピソードの一つひとつが嫌なのではなくて、正直なことを言ってしまえば、そういったものを求める人たちのことが苦手なのです。
目の前のことだけでなく、たった今、世界中に起きている現実。私たちが知らなければならないこと。本当のこと。そのほとんどは、目を向け、耳を傾けようとするだけでも苦しいようなものばかりでしょう。知ろうとすればするほどに、近づこうと努めれば努めるほどに、そこにある悪徳に、不正義に、理不尽に、不幸に、胸が苦しくなるでしょう。そしてもし、本当に真剣にそれらについて考えようとするならば、わかっている素振りをするだけで実際は何もしようとしていない自らに、もっと言えば加担してしまっているかもしれない自分に気が付いて、罪悪感に頭を抱えることになるでしょう。
「ちょっといい話」などでは到底、塗り隠しつくせないほどの複雑で残酷で巨大な現実が、確かにいつもそこにある。でもそんなものはいつだって一先ず脇に置いておいて、大きな悪徳からも不条理からも目を背けておいて、向こう三軒両隣くらいの、お手軽な「いい話」を寄せ集めて安心しようとしている感じ。私はそれが無性に気に入らないのです。苦しくて泣き叫んでいる人の影が目の端に入っても見えていない振りをして、自分のいる世界は未来永劫盤石だと言い聞かせているような、“あったかワールド”に閉じている感じが、とても気色悪いなあと思います。それに、自分が施した訳でもない「いいこと」を、まるで自分の手柄か何かのように語る感じ。私には、ちまちまとしてケチくさく感じられて苦手です。それ、お前は関係ないだろう、って言いたくなります。
「ちょっといい話」をかき集めギュウギュウと両耳に詰め込んで、何かから自分を守ろうとしている。目を覆うような現実から、大きな不正義から、耳に痛い言葉から、加担している罪から自分をさりげなく遠ざけて、この世界はいいものだよと自分に保証してくれそうな、ほんの小さなものにでも飛びついてしがみつきたがっている。そんな、見苦しくせこい感じ。
もちろん、「人間て捨てたもんじゃない」と思わせる出来事もあるでしょう。でも、それと同じ大きさで、「人間て最低だ」と思ってもいいんじゃないかと思うのです。後者に目をつむり、前者ばかりをかき集める態度に、私はいやしさを、浅ましさを感じます。捨てたもんじゃない、と思う時の「人間」には自分を含めて、最低だと思うときの「人間」からは自分を排除する。たとえそれが無意識であっても、いえ、だからこそ、卑怯でいやらしいなと思います。
わかっています。だから私はこんな文章を書いて、牽制しているのです。互いに微妙な思いをしなくていいように、私はいつもこんな風に感じています、と私は白状しています。言いたい放題に言い散らかして、きっともう、私も大概なのだと自分で思います。でもこうして規制線を張ってしまえば、あなたは私に近寄ろうなんて考えもせずにいられて、面倒な思いをしなくて済むでしょう。これはお互いの幸せの為に、大事な話なのです。
とっても親切な私による、ちょっといい話、の話でした。
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