誰として、生きる?



病気の進行とともに、私は徐々に、自分以外の人の手を借りないと生きていくのが難しくなってきました。近頃は足に加えて手までが動きづらくなってきて、病気になる前であれば自分自身で当たり前に出来た日常のこまごまとしたことについても、人に頼まなければならないことが増えてきました。家事、入浴、着替え、外出など、一人で行うのはそのほとんどが困難で、こうしてキーボードを打っている今も、自分自身の指の重さに気までもが重くなってきます。


自分では出来ないことを人に頼むとき、どこまで伝えようかと悩みます。「してほしいこと」について、どこまでが「頼んでいいこと」で、どこからが「わがまま」になってしまうのだろうかと考えるからです。


たとえば、お腹が空いたので、お昼ご飯を食べてから午後のパソコン作業をしようかなあと思ったとします。

―駅までの道の途中にあるインド料理屋さんのキーマエッグカレーとダルカレーのセットを食べたいな。辛さは中辛で、ナンはプレーンナンからチーズナンに変更してね。食後には成城石井オリジナルの抹茶アイスクリーム。売り切れていたらハーゲンダッツでもいいよ。スプーンは台所にある、軽くて持ち手の太いやつを使いたいかな。食後の歯磨きは電動歯ブラシに洗面台にある歯みがき粉を少しだけ先の方につけて、左奥歯側から磨きたい。歯磨き後は念入りにデンタルリンスをして、使い終わったコップは洗面台の右奥の方に戻しておいてね。午後はパソコンで作業したいから、いつも使っているトラックボールはベッドの上じゃなくて机の上に置いておいてほしい。喉が渇いた時のために冷蔵庫の中にある炭酸水をそばに置いておきたいな。できればレモン風味の炭酸水、そう、キャップは軽く開けておいてください。部屋に風を通したいから、リビングの窓は半分だけ開けて。テレビはミュートにしてNHKをつけっぱなしにしてくださいね。で、タブレットでKing Gnuを大きめの音量で。ペンケースの中に入っている、黄色い方の目薬をさしてから、はい、仕事開始。


誰の手も借りずに、すべて自分で実行出来るならストレスはほぼ無いでしょう。でもこれ、自分以外の人に頼むのはとても面倒くさい。細かく注文するのが面倒くさいのではなくて、注文しているうちに、たぶん注文されている人よりも先に自分の方がうんざりと、嫌になってしまうような気がするのです。日常の中で当たり前のように、すべて自分で出来てしまうならそんなに大した作業ではないと思います。でも、文字にするとこんなにも「面倒くさい」。きっと、こうして読んでくださっている方も、読みながらイライラしてきたのではないでしょうか?


そこできっと私は、本当に自分がしてほしいことを隠して、こんな風に頼んでしまうのです。

「お昼、すぐそこにあるコンビニで適当に買ってきてください。ついでにアイスクリームも。あ、そのコンビニで売っていたものでいいです。こだわりは無いんで、お任せします」なんて。


歯ブラシに歯みがき粉をたっぷりつけられてしまっても、リビングの窓を全開にされても、Official髭男dismを再生されてしまっても、私はそのたびごとに「いえ、そうじゃなくて」とは言えない気がします。「うーん、違うんだけどな」と心の中でつぶやきながら、曖昧に笑って、大体のことを受け入れてしまうんだろうなと思います。


ごくたまに、人に何か頼むくらいであれば、自分の趣味嗜好なんて少しくらい引っ込めてしまってもいいのかもしれません。買ってきてくれたものが、あまり好みの香りではない缶コーヒーだったとしても、頼んだはずのハムサンドではなくツナサンドだったとしても、レモンサワーじゃなくてグレープフルーツサワーを注文されてしまったとしても、私はそれを「別にいいよ」と言って受け取るでしょう。


でもそうして人にやってもらうことが、日常のほとんどすべてだった場合は、どうでしょう。自分に関して頼みたいこと、ちょっとした、作って欲しい<形>なんかがあっても、「『面倒くさいな』ってきっと思っているんだろうな」とか、「細かいことを指示するのって、自分が面倒くさい人みたいでなんか嫌だな」なんて感じ始めてしまって、本当に「してほしいこと」の半分くらいしか伝えきれなかったとしたら。そしてその残った半分のことすらも、「AだってBだって一緒でしょ。やってあげるんだからそれ以上文句言わないでよ」と、相手に突き放されてしまったら。


「その人らしさ」とか「こだわり」とかいう言葉は、なんだか面倒くさくて鬱陶しくて、実は私自身あまり好きではありませんでした。細かいことをごちゃごちゃ言う人にはなりたくないなって。けれど、自分が動けない身体になってきて、実はそれは大事なことだと思うようになってきました。


その人にとって大事なこと。「嗜好」とか「趣味」「執着」、あるいはその人らしい「選択」みたいなところに、その人がその人であるということの、大事な部分が詰まっているのではないかと思うようになってきたのです。もう何十年も生きてきて、体に馴染んでしっくりきているもの。数多ある選択肢の中から、体と心が弾んだり嬉しかったり休まったり安心したりするものを選び出し、その人らしさを、日常を作り出している<形>。


体を自在に動かせる人たちは自然に、そうやってあらゆる場面において自分なりの「選択」をさりげなく遂行して、日常を過ごしているのだと思います。すべてが完璧に実現できなかったとしても、セカンドベスト、サードベストをやり繰りして、自分にとって当たり前の、気持ちのいい<形>を自然に作りだしているのだと思います。


一方で、動けない人がそれを実現したいというと「わがまま」と言われるようになってしまうのはおかしいと思うのです。「人にやってもらっているんだから、細かい注文なんかしないで黙って受け入れろよ」なんて思われてしまうのは、変だと思うのです。私だって、本当は自分でやりたい。それが出来ないから、仕方がないから、「どうしても頼みたいこと」「頼んでもいいこと」をぐるぐると頭の中で考え整理して、「出来れば本当は頼みたくない」という気持ちを乗り越えて、それでも頼みたいことだけを、何とか頼んでいるのです。


だから、「AだってBだって一緒でしょ」なんて、言ってほしくない。そんなの面倒だとかいう誰かの都合で、贅沢だとかいう誰かの言いがかりで、その人の「選択」を奪わないでほしい。「その人がその人であること」そのものを、その大事な一つひとつを誰かに剥ぎ取られ、棄てることを強要されてしまったら、その人はその人自身でなくなってしまいます。


私のような、進行性の治らない病気に罹って重度の障害がある人などは、細かな選択とか日常的なこだわりなんていう以前に、「生きていられるだけマシじゃん」とか「世話してもらっているだけで、生かしてもらっているだけで十分でしょ。感謝しなよ」ということにされてしまいかねません。息ができて、栄養が摂れていれば、あとは文句を言うなという訳です。私は病気によって、もうすぐ身体的な意味でも<声>が出せなくなってしまう。だから、文句を言うどころか注文するその言葉すらも周りの耳に届かなくなってしまうのではと考えると、正直、とても怖く感じます。


体が自在に動く人たちは、自分たちなりの日常的なこだわりを山のように実現しておきながら、私のように人の手助けが必要な人間には、何でも黙って受け入れろ、それ以上文句を言うな、というのは理不尽です。治らない病気と闘う障害者は、人間としてその程度にしか尊重されなくていい、とでもいうのでしょうか。

そして、そうして辛うじて繋がれていく生は、いったい誰の生なのでしょう。自分であることを剥ぎ取られた先にある時間を、私はいったい誰として生きていったらいいのでしょうか。


日常の、生活の中のほんの小さなこだわりの一つひとつが、私の生そのものなのです。お願いですからどうか奪わないで、最後まで私自身としての生をおくらせてほしいと思います。取り急ぎ、私の明日の昼食の希望は文章中に書いておきました。どうか宜しく、お願いいたします。



書くこと。生きること。:Hiromi's Blog

書くこと。学び、考えること。難病ALSに罹患し、世界や自分のあり様を疑う戦慄の時間。生きた証として書いていきます。 satohiromi.amebaownd.com/