1996


1996年7月。スーツケースに紙おむつをいっぱいに詰めて、私たち家族は初めての海外旅行へ出発しました。行き先は、グアム島です。


まだインターネットがそれほど一般ではなかった時代。旅行ガイド本の定番『地球の歩き方』には「海外で買う紙おむつは日本製と比べゴワゴワと硬くて使いづらい」などというような口コミも載っていて、私はその細かな文字で書かれた投稿の一つひとつに真剣に目を通し、旅行の準備に余念がありませんでした。今思えば地球上の何処にでも赤ん坊はいる訳で、訪れた先々で地元の人が使っているおむつを買い求めればいいだけでのことなのですが、2歳の長女と10か月になる長男が旅行中に困ることがあってはいけないと、私はスーツケースの荷物の隙間という隙間を、紙おむつで埋めました。


入社早々の、二回の産休を経て勤めていた会社を退職した私は、夫と共に新しい仕事を立ち上げようと計画しているところでした。私はまだ20台半ばで体力もあり、皮膚の下はいつも、若者らしい楽観と好奇心と、未来への根拠のない万能感で満たされていました。


私たち夫婦は、海外を旅行してみたいと話をするようになりました。遠くへ、知らない場所へ、家族で冒険をしてみたい。贅沢できるほどのお金はありませんでしたが、そんなことは私たちにとって大した問題ではありませんでした。私個人の思いを言えば、たとえ持っているお金がすべて無くなってしまったとしても、旅に出たいのであれば行くべきだと思いました。それは若い私たちに与えられた権利であって、課された義務のようなものでもあるような、そんな気がしていました。

格安ツアーで、私たちにもギリギリ手が届く、グアム島へ。

少しでも安く旅行できるようにと、お盆の時期を避け7月出発のツアーを予約しました。目抜き通りの有名リゾートホテルではなく、自炊用のキッチンが付いているコンドミニアムを利用した、航空券と宿泊だけが用意されたツアーを選びました。旅行中はスーパーで食材を買って、いつも通りに4人分の食事を作れば十分だと考えたのでした。


飛行機で私たち家族に割り当てられたのは、エコノミークラスの、壁を前にした一番前の座席でした。2歳の娘は夫の膝の上に座らせ、10か月の息子は目の前の壁に取り付けられた、乳児用の小さな簡易ベッドに寝かせました。娘のためにと用意された幼児用の機内食に小さな感動を覚えながら、私たちはグアム島へと、短いフライトを楽しみました。


グアムの空港に到着すると、私たちは小さな赤いレンタカーとチャイルドシートを借りて、宿泊先のコンドミニアムへと向かいました。コンドミニアムは十分に広く快適で、日本人の私には全体的に少し高すぎるキッチンと、2つあるベッドルームにはやはり若干高めの大きなベッドがそれぞれ2台据えてありました。


滞在中は予定通り、スーパーで食材を買い込んで自炊をしました。茶色くて硬い食パン、スパムの缶詰、ジュースやフルーツ、子ども達のお菓子等々。見慣れないパッケージや日本と違う食材の数々に、私の好奇心はますます膨み、知らないということは、違うということはこんなにも面白いものなのかと、楽しくてたまりませんでした。町の、生活の風景の違いがウズウズするほどに愉快に感じられて、私は少しでも、この土地の人たちの日常らしいものに近づきたいと思いながら、そこでの時間を出来るだけゆっくりと過ごしていました。


滞在中のある日の午後。プールで遊び疲れて眠ってしまった子ども達を後部座席に乗せ、私たちは赤茶けた道をレンタカーで走っていました。頭上の青空はいつのまにか薄暗い雲に隠れ見えなくなっていて、その日もまた几帳面に、前の日と同じ強さで滝のようなスコールが降り始めました。ちょうど子ども達も寝てしまっているからと雨が止むまでのドライブを楽しんでいると、これまた前の日と同じように、激しかった雨は1時間ほどで晴れ上がりました。


雨できれいに掃除されたあとの空は夕焼けを待って控えめに青く、午後も遅くなってきていることを感じさせました。道の両側にはサトウキビ畑が広がっていて、道路から一段低くなっている地面からは、背丈ほどもあるのではと思えるようなサトウキビが、健康的なグリーンの色をきらめかせながら、真っ直ぐに空に向かって伸びていました。


風に弄ばれ、さわさわと揺れるサトウキビ。私は、どこまでも途切れないその畑を目にしながら、いったいこの畑の持ち主はどこに住んでいるのだろう、もしかしてサトウキビに埋もれるようにしてどこかに家が建っていたりするのかしらなどと取り留めもなく考えていました。すると、目の前に一台のピックアップトラックが見えてきました。濃いグレーの車体は程よく砂埃を帯びていて、荷台には10代前半くらいの少年から中年の男女まで、4、5人の家族らしい人たちが身を寄せ合って乗っていました。水を買いに行った帰りなのか、その手はそれぞれ大きなポリタンクに添えられていて、互いを見合わせているその日焼けした顔はみな、ガタガタと揺れる荷台の振動さえも楽しんでいるかのように、朗らかな白い歯を見せていました。


私たちは、恋人岬という観光地を訪れてみることを思いつきました。その場所に特に強い興味や思い入れがあった訳ではないのですが、折角なので旅行客らしく、一つくらいは観光地を訪ねてみようと考えたのでした。ガイドブックのページと車窓からの風景とを照らしながら、人けのない海沿いの道を私たちは進みました。そしてやっと辿り着いた恋人岬には、工事中かなにかの理由から、立ち入り禁止の看板が掲げられていました。


ははは縁がなかったねえ、などと話しながら、後部座席で寝息を立てている子ども達を置いて、私たちは車を降りました。そして、海を見るために一段高い場所に立ちました。


目の前に広がっているのはフィリピン海でした。空は高く、薄い銀色の混ざった落ち着いたブルーで、海もそれを映して同じ色をしていました。私は、空と海のつなぎ目あたりを眺めながら、ずいぶん遠くに来たなあと思いました。世界地図の、本物をこの目に見てしまったような気がして、この海のずっと向こうにある国々のことを、そこで生きている人たちのことを思いました。胸いっぱいに新鮮な空気が入り込み、私は大きな声を出したくなりました。この地球上の何処にいても私たちは生きていけるし、何処で生きていってもいいのだと、そう思いました。


私は私にとっての、一つの世界というものの姿を、この時、体全体に取り込みました。世界は広くて、私たちは小さく、それでいて完璧に自由なのでした。


***


翌1997年夏。私たちは再びグアムを訪れました。生きていくことへのさわやかな希望と力を与えてくれたあの場所に、世界の広さと生きることの自由を感じさせてくれたあの景色に、もう一度触れたいと思ったからでした。


あれから現在まで、私はたくさんの国を、地域を旅してきました。見たことのない景色が見たくて、世界の広さを感じたくて、何度でも旅に出ました。旅が終わり日本へ帰ってくるたびに、どうでもいいことにがんじがらめになっている自分と、自分の毎日を、強烈に意識させられました。私は、広い世界に自分のあり様を合わせたい、世界の何処にいても自分の足で立ち、自分の頭で考えて、自分のままで、自在に生きられるようになりたいと思いました。そして、どうでもいいものをすべて脱ぎ切った時、自分の中に残しておかなければならないものについて考えるようになりました。


今でも私はよく、24年前を思い出すのです。赤茶けた道とサトウキビ畑と、フィリピン海のある景色を。




*写真は2018年5月。3度目のグアム旅行にて撮影

書くこと。生きること。:Hiromi's Blog

書くこと。学び、考えること。難病ALSに罹患し、世界や自分のあり様を疑う戦慄の時間。生きた証として書いていきます。 satohiromi.amebaownd.com/