泣ける話


泣ける映画、泣けるドラマ、泣けるマンガ。

―何故、そんなに「泣きたい」のだろう?


泣くって、とても苦しい。それに、疲れることだ。悲しくて、気の毒で、痛くて、辛くて、情けなくて、嬉しくて、有り難くて、感極まって、泣く。嬉しくて泣くときでさえ、私の脳みそは、ぐったりと疲れる。


「泣ける」ことを宣伝文句に使うということは、「泣ける」ことが“引き”になるということなのだろう。いったいどういう料簡なのだろうかと私にはわからないことだらけの世の中だが、わざわざ「泣きたい」というのも意味がわからない。


悲しいのなんて、もう現実だけで十分じゃないか?


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私はうっかり気を抜くといつだって泣きだしそうで、もうすぐ死んでしまう自分のことなんてわざわざ考えてみるまでもなく、本を読んでもニュースに触れてもドキュメンタリーを見ても、泣かないで堪えられる現実なんてこの世にあるのだろうかと、毎日、そのくらい泣けて泣けて仕方がない。


年を取って涙もろくなった、ということでもない。私は小さな頃から、よく泣いていた。


幼稚園とか、小学校低学年くらいの頃。私には弟がいるのだが、その弟が何かの理由で、母親に叱られていたとする。部屋を散らかしたとか、おもちゃを乱暴に扱ったとか、そんな子どもらしくかわいらしい理由からだ。叱られている弟と、叱っている母の姿を遠くに見ただけで、私はもう涙が出てしまう。弟が叱られているのが悲しくて、母の強い言葉が聞いていられなくて、弟よりも先に私の方が泣き出してしまうのだ。ひくひくとしゃくりあげて泣いていると、母は怒りの矛先を私に向け始める。「あなたには関係ないでしょう?何であなたが泣くの?!」。私は「叱られていないのに泣いた」という理由で叱られて、また泣く。


数年前、近隣の小学校の入学式でのこと。私は地域活動をしていた立場から、来賓席へ呼んでいただいたことが何度かあった。式典の後半、校長先生やPTA会長の挨拶が終わると、新2年生らによる新1年生への「呼びかけ」が始まる。「しんいちねんせいの、みなさん!」「にゅうがく、おめでとうございます」―「おめでとうございまーす!」というやつだ。私はこの新2年生たちの姿に、涙が溢れる。新2年生すごいぞ、立派じゃないか。「呼びかけ」が終わると次は合奏だ。ピアニカとカスタネットとトライアングルと、カチャカチャと少しずれたリズムを伴った賑やかで可愛らしい音色に、私はますます涙が止まらない。初めての義務教育の一年間、新2年生のこの子らは皆、きっと一生懸命に毎日を過ごしたろう、大きくなったなあ、これからいろいろあるだろうけれど頑張れよ、などと眺めているだけで、私の目頭は熱くなり、鼻をすすらずにはいられない。


数年前。私が杖をつき始めて、まだ数日くらいしか経っていなかった頃の話。外出先から帰宅する途中、家の近所で知り合いとバッタリ会った。慣れない杖を右手につきながら、一歩ずつゆっくりと、知り合いに近づく私。するとその知り合いは急に、弾けたように笑い出した。私を指さして、ゲラゲラと笑うのだ。陳腐な表現かもしれないが、私はその瞬間、思いっきり頭を殴られたような衝撃を受けた。自分は何故笑われているのか?何が起きているのか?頭の中が真っ白になって、私は消えそうな声で辛うじて挨拶の言葉をつぶやくと、急げない足を精一杯に動かして、よたよたと自宅へ向かった。私は玄関からそのまま寝室へ入り、ベッドにバタンとうつぶせに倒れ込むと、泣いた。この時は声が出なかった。空っぽの何かを噛みしめるように、私はしばらくの間、泣いた。


***


二十歳を過ぎた頃からは、いい大人が泣いてばかりいると驚かれ引かれてしまうのではと思い、人前で泣くのを我慢するようになった。自分が泣きそうだと感じると、わざと関係のないことを頭に思い浮かべてみたり、「私は泣かないはずだ」なんて無理矢理に思ってみたりするのだ。けれど、生理現象がそんなに簡単にコントロール出来るはずもなくて、私の体は小さく震え、みるみる鼻は赤くなって、下瞼に浮かんだ涙の粒は、今にもほろほろとこぼれ落ちそうになる。近頃はマスクの着用が日常になって、私のような泣き虫は皆、助かっているのではないだろうかと想像する。


私の生きている日常と、「泣ける」映画なんていうものをわざわざ観に行く人のそれとは、もしかしたら別の世界の上に存在しているのかもしれない、という仮説はどうだろう。ううん、違うな。もしかしたら「泣く」という行為の意味や、体の機能や生理的な仕組みなんかが違うんだ。きっと私が特殊なのであって、私以外の大勢の人たちに言わせれば、私は相当変なヤツなんだろう。


ん、わかったぞ。泣ける映画=ジェットコースターなのか。

私はジェットコースターが苦手で、あんなに怖いものを何故人はお金を払ってまで乗りたがるのかと不思議で仕方がない。お化け屋敷だって、ホラー映画だってそうだ。怖い思いをしているのだから、私の方こそお金をもらってもいいくらいだ。ああそうそう、激辛ラーメン。あれもそうだな。食べるものなんていくらでも種類があるというのに、なんでわざわざ、生き物として口にしちゃいけないレベルの危険物を、味蕾を破壊しながら食わねばならんのだ。泣ける映画どころではない。見渡してみれば世界は私にとって、苦痛をわざわざ求めに行くような、意味不明なサービスで溢れているのだった。


ずっと不思議だった。なぜわざわざ「泣きたい」のか。その疑問を解決したくてこうしてあれこれ考えてみたが、触れるもののあれこれが泣けて仕方ない私には、「泣ける」映画を観たい人の気持ちは今のところどうしても理解できないようだ。

まあ、感覚、とはそういうもんだよな。


***


新人類が誕生した20万年前から今まで、地球上の全員が泣かないでいられた瞬間なんて、たぶんきっと1秒もなかったんじゃないかと想像する。いや、0.00001秒もなかったろう。誰も笑っていなかった瞬間も、怒っていなかった瞬間も、同じようにきっとなかったに違いない。いつだって、誰かが泣いていて、それを見てまた別の誰かが泣いて、何処かで誰かが泣くのを止めて、誰かがそれを見て、笑っていたのだろう。


そんな人間の時間の一瞬に加担して、私はもうすぐ宇宙の塵になる。

―なんて素敵なんだ。泣きそうだよ!



書くこと。生きること。:Hiromi's Blog

書くこと。学び、考えること。難病ALSに罹患し、世界や自分のあり様を疑う戦慄の時間。生きた証として書いていきます。 satohiromi.amebaownd.com/