そんなのフェアじゃない。
フェアじゃない。そう言われて、私はハッとしました。
危ないところでした。私はまんまと、フェアでない条件の下で、自分の生き死にと向き合わなければならないところでした。
私はALS(筋萎縮性側索硬化症)患者です。体に異変が起きてからすでに5年以上の年月が経ち、幾度かの検査入院を経て2年前に確定診断を受けました。
病気によって、私は遠くない将来に全身の筋肉が動かなくなり、口から栄養を摂ることも困難となって、呼吸筋も障害されて死んでしまうだろうと言われています。もうすぐ、いわゆる寝たきりの状態となり自発呼吸も出来なくなる訳ですが、それでも意識は障害されず、ずっと明瞭なままなのだそうです。延命措置として人工呼吸器を装着することも可能ですが、それは患者自身の選択に委ねられています。人工呼吸器を装着すれば呼吸は確保され命は繋がりますが、一度着けた装置は取り外すことができず、24時間の介護が必要な生活をおくることになります。
延命するか否かを選択できる、というと、患者が自分自身の命について決定できる権利を握っていて、何か自由で良いことのように聞こえるかもしれません。しかし、果たしてそうでしょうか。自分自身の命をどこまでのものとするか、人工呼吸器を着けて人生をおくるか、着けずに死ぬか、自分で選択するということ。それは今の私たちの社会においては、とても厳しく、残酷なことです。
ALS患者の意志決定について、こうした議論をしている時に決まって話題にされるのが、安楽死、尊厳死という死の形についてです。意識が明瞭に保たれたままに、徐々に全身が動かなくなり息が出来なくなっていく恐怖。体の動きも声も奪われ、封じ込められてしまう苦痛。それほどの苦しみを生きなければならないのであれば、いっそ楽に死んでしまいたい、その選択を自由にさせてあげたい、という、一見して誰も傷付かず、患者や介護者の負担を減らすことができるような選択肢。患者自身の権利や自由を尊重し、介護者までも守るかのような、“進んだ”考え方。
私はこの話題に触れるたび、大急ぎで耳を塞ぎ、ギュッと目を閉じたくなります。社会全体が私の死を望んでいるような、そんな気がして発狂しそうになるのです。日本でも早くこの議論を進めた方がいい、などという、もっともらしい言説をあっという間に受け入れてしまう世間の“空気”に、自分の問題として生死の選択を眼前に迫られている私は苦しみます。議論を進めた方がいい、ということは、私に死んでほしい、ということなのか?メディアなどで触れる意見の一言一句に、私はじわじわと首を絞められていくような思いがします。
本人の意志を尊重すべきだ、そんな不幸な人生ならきっと本人も死にたいだろうから自由にさせてやればいいじゃないか、と言いたいのでしょう。介護者の負担を減らすべきだ、医療資源や社会保障の負担を減らすべきだ、そしてその為には死んでもらった方がいい、と思っているのでしょう。そして、ほとんど死んだも同然の人間を、そこまでして生かしておかなくてもいいじゃないか、といったところが本心なのでしょう。重病人や障害者は役にも立たない社会のお荷物であって、俺様の財布から掠め取った金で生きようとしているとんでもない奴らなのだから、世の中の為にいなくなってしまえばいい、と叫びたいのでしょう。
自分の生きている「社会」そのものを自ら否定してしまっていることに気付いていない、被害者面をした人たちから漏れ聞こえてくる本音が、私を苦しめます。私は、その当事者性をまったく持たない人たちに、患者を目の前にして同じことが言えるのかと、問い質したくなります。
ALS患者である私個人のことについて言えば、こんな思いついた程度の議論を他人からいちいち押し付けられなくても、24時間、自分の「生」を見つめて生きています。自分は、家族は、これからどう生きたらいいのか。自分は意思決定をどのようにしていくべきなのか。家族はどう守られるべきか。そして、私の生きるこの「社会」とはいったい何なのか。その人がその人として最後まで生き切るということはどういうことなのか。ALS当事者として誰よりも真剣に「生」に向き合っています。
しかし、いくらそうして考え尽くしても、私の「意志決定」が外野からの圧力に影響されずにはいられません。ALS患者の生死のあり様がセンセーショナルな話題として世間の好奇のままに弄ばれる中で、私は、私が生き続けることを望んでいない人たちが多くいることを知ります。安楽死、尊厳死、という言葉が連呼されるたびに、私は、積極的に死を選択してほしいと言われているかのように感じます。そして、それでも生きることへの希望を捨てきれない私は、自分の生きてきた社会はこんなものであったかと、こんな場所で生きていても仕方がないじゃないかと、まんまと絶望させられてしまうのです。
そんな世間の“空気”に私自身が馴染み同調してしまっていることに気付かされたのは、「フェアじゃない」という発言を耳にした時でした。それは、ALS患者や家族をはじめ医師や看護師、ヘルパー、栄養士、理学療法士など患者を取り巻く専門職の人たちによる集まりの中で、ある医師が口にした言葉でした。
ALS患者に対し延命措置を施すかどうか、決めるのは患者自身ですが、今の私たちの社会の中で、患者は完全に、何ものにもとらわれない中でその意思決定を行える訳ではありません。そこには患者自身が設定したものではない、条件、制約、前提といったものが存在します。
私たち患者が意思決定を行う際、私たちに課せられた“条件”は例えばこういったものです。「あなたが生き続けることで、家族は大きな介護の労を負わなければなりません」「あなたが生き続けることで、家族は経済的に困ることになります」「あなたが生き続けることで、社会にも負担がかかります」「あなたが生き続ける選択をしたとしても、満足な制度や支援が整わない社会の中で幸せに生きることは、まず無理でしょう」。
そして、こう迫られるのです―「さあ、それでもあなたは生き続けますか?それとも死にますか?」と。
介護を担う家族の負担をどう軽減したらいいのか、家族へのケアはどうあるべきか、それは社会全体で考えなければならない重要な問題です。制度の整備も、ヘルパーの人材不足解消も、喫緊の課題です。でもそれらの問題について考えていくことと、安楽死、尊厳死に関する議論は、紐づけて行われるべきでないと私は考えます。問題は問題として、解決すべきこととして徹底的に話し合われるべきですが、一人の人間の生死について考えることが、問題がいつまでも問題のままであることに影響されてはいけないと考えます。問題解決が困難だから死んだ方がいい、誰かの迷惑になるから死を選択した方がいい、などという結論が、患者本人によっても周囲によっても、誰によっても導き出される社会であってはならないと私は考えます。
私たち患者が生き続けることの様々な“マイナス”を熱心に説く人はこの社会に数限りなくいるようですが、私たちが生き続けることの“プラス”を語る人の話は、ほとんど聞いたことがありません。この社会は、生き続けるのは大変だよ、家族も苦しむよ、と私たちの耳元で囁きはしますが、堂々と生きたいだけ目いっぱい生きていていいんだよ、と肩を抱いてくれる社会ではありません。
私たちが生き続けることの“マイナス”を指摘するのであれば、それと同じ大きさで、私たちが自らの人生を積極的に生き続けることについても肯定的に語って欲しい。安楽に死ぬのと、尊厳を持って死ぬのと同じ声の大きさで、どうしたら安楽に生きられるのか、どうしたら尊厳を持って生きられるのかについて、議論をしてほしい。そうでなければフェアではありません。
生きるか死ぬか、患者自身が選択をすることから逃れられないのであれば、せめて完全にフェアな条件の下でそれを考えたい。患者自身の死生観や宗教観、人生についての考え方、希望や夢。そして、人工呼吸器を装着した先にある、安心して幸せに生きられる人生。個人個人がそうしたものを真っ新な条件の下で自由に、思うままに考えられるようになって初めて、生きるか死ぬかを自由に選択する権利、なとど言えるのだと思います。
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尊厳を持って死ぬ権利、が語られるならば、尊厳を守られる形で生き続ける権利についても同等の大きさを、強さを持って論じ合われるべきだ。フェアでない、歪んだ現実に人の命を押し込めようとするのではなく、現実をフェアなものに近づけるべきだ。
この社会は、フェアじゃない。
社会が無関心なのであれば、制度が未整備なのであれば、議論が足りないのであれば、それらを打破し、克服する為に。私は残る力をもって、考え、動き続ける。
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