商店の子
昭和50年代。東京の、ある私鉄駅前の商店街。駅からまっすぐに続く「〇〇銀座商店街」という名前のその通りには、果物屋、八百屋、帽子屋、喫茶店、パチンコ屋、靴屋、おもちゃ屋、そば屋、肉屋、本屋、魚屋、呉服屋、文房具屋、自転車屋、ラーメン屋等々と、数十軒の個人商店が並んでいました。私は、その名前に銀座への憧れを感じさせる小さな商店街の、食料品店の孫娘として育ちました。店主は、私のじいちゃんです。
今では人通りの少ない静かな通りとなってしまった商店街ですが、当時はいつも買い物客で賑わっていて、5の付く日には縁日が出るほどに活気がありました。どの店にも小学生を中心にした「その店の子」がいて、私たちはよく一緒に遊んでいました。うちの食料品店は駅を出て目の前の、商店街の入り口にあたる場所にありました。店では、じいちゃん、親戚たち、私の両親が働いていて、それぞれ店から近い場所に住んでいました。
商店街あげてのセールの日。「びっくり市」と名付けられたその日になると、商店街はいつもに増して人で溢れました。どの店も、軒先にはその日の目玉商品が並べられ、商店街のアーチにはセールの日を示す横断幕が掲げられて、「チキチキバンバン」の曲が流れました。もちろん私も店を手伝いました。普段は自動販売機が並ぶ店の脇も、この日はビールケースの上に大きなベニヤ板を置いて即席の特売場になりました。確かサラダ油とか醤油とか、そんな商品を並べたと記憶しています。私は重要な特売場を手伝いの持ち場として与えられ、「いらっしゃい、いらっしゃい」と声を出して売り子に徹しました。同級生の子が前を通りかかると少し恥ずかしかったけれど、私はこの店の子なのだから逃げてはいけないと、努めて何でもない振りをして顔を上げていました。
当時、小学生が自分の店の手伝いをするのは珍しいことではありませんでした。私は日頃からレジを打ったり、店の奥で豆や佃煮などを量って小さな袋に詰めたりと、毎日のように店の仕事を手伝っていました。お客さんも、子どもがレジを打ち釣銭を差し出すのを、全く違和感なく受け取っていました。
うちの店は、食料品全般を扱う小さなスーパーのような店でした。グリーンに塗られたカウンターにはレジが2台。その横には、肉まんを温めたり、アイスクリームを掬いコーンに乗せて販売するケースなども置いてあったりして、今考えると、店主であったじいちゃんは、新しいことを進んで取り入れる人だったのだなあと思います。
食料品店の子である私が手伝わなければならないことは、多岐にわたりました。一番気を遣わず楽だったのは、商品の品出しです。お菓子のコーナーを任されることが多かった私は、商品棚を見ながら少なくなってきた菓子名を紙にメモし、2階にあるバックヤードへ取りに行くという仕事をしました。ビスケット、チョコレート、煎餅、キャンディー、ガム。余談ですが、私は当時、世界で一番美味しい食べ物はキャラメルコーンだと思っていました。そうそう、ポテトチップスのコンソメパンチ味が発売された日には、どんな味がするのかとワクワクしたのを覚えています。そんな私は小学校3年生にして、品出しの手伝いで頻繁に書くようになった「歌舞伎揚」という漢字を心ならずも憶えてしまうのですが、平仮名でメモを取らなかった理由を今思えば、この難しい漢字を何と読むのかがわからなかったからなのでした。
納豆のパックに輪ゴムを掛けてからしの小袋を挟んだり、大きな段ボールに入った白い卵を、緊張しながら小分けのケースに入れたりする手伝いもしました。いわゆる“キャラメル包み”など、贈答用の包装も得意でした。近所の習字教室に通っていた私は、習っているのだから書いてみなさいと言われ、筆ペンで手土産用の熨斗紙を書かされたりもしたのですから、思えば当時のお客さん達はおおらかでした。
自動販売機にジュースを入れる手伝いもしましたが、コーラだったかファンタだったか、入れる場所を間違えてしまうことも度々あって、あの仕事はあまり得意ではありませんでした。間違って入れてしまったことを言い出せなかった私のせいで、取り出し口から違う商品が出てきてしまったお客さんたちはきっと驚いただろうなと、もう流石に時効になったであろう今になって申し訳なく思います。
店の手伝いの中でも印象深いのは、年末の売り出しです。店先にベニヤで作った広い台を出し、ずらりとお節料理を並べて、私はその重要な場所の売り子を任されました。かまぼこ、伊達巻、栗きんとん、黒豆、田作り、昆布巻き、数の子、そして、白あんで出来た飾りのお菓子。同じかまぼこでもいろいろな値段の商品があって、きっとこの高いのは特別に美味しいのだろうと、子ども心にその味を想像したりしながら、お客さんの相手をしました。一番高価なかまぼこを買ってくれるお客さんがいたりすると、ここの家のお節料理はさぞや豪華なのだろうと、艶やかな朱塗りの重箱を想像したりしました。こうして外で売り出しをするときには、ベニヤの商品台の影に置かれた青色のプラスチックの笊がレジ替わりで、上の笊に小銭を、重ねてある下の笊にはお札を入れていました。子ども達が、生活の中でそれなりに役割を持っていた、そんな時代でした。
年末の売り出しの、私にとってのメインは、何といっても酢だこでした。大きな樽にいっぱいの、真っ赤な酢だこ。お客さんの注文を聞いて、私は樽に手を入れて漬け酢の中から目ぼしいたこを選び出し、包丁でその足を切ってビニール袋に入れ、輪ゴムで縛ります。秤に乗せ重さを確認すると値段を計算し、お客さんに伝えます。パックされた商品を売るのとはまた別の醍醐味がり、いっちょ前の商人になれたような気がして、私はこの仕事が誇らしく、好きでした。店番が忙しくて、年末のドラえもんのアニメ特番が見られなくても、私はそれほど残念には思いませんでした。
お客さんとの代金のやりとりはそれなりに緊張するものでしたが、暗算には自信がありました。小学校の何年生の頃だったか、店に新しいレジスターが導入されたのですが、なんとそれは、お客さんから預かった金額を打ち込むと自動で釣銭を表示してくれるという、最新式のものでした。今ではごくあたりまえの機能ですが、当時としては画期的なもので、私は、もう暗算で引き算をしなくてよいのかと大いに喜んだ反面、せっかく学校で習った算数を使う場面が減ってしまうことを思うと、店員としての自分の役割が小さくなってしまう気がして、少し残念でした。
放課後、友達と遊ばない日には、私は店にいました。手伝いをしたり、包装紙の余りをもらって店の奥で絵を描いたりして過ごしていました。店の奥には作業場のほかに休憩スペースがあって、小さな白黒テレビと流し台と、一口だけのガスコンロがありました。階段の真下にあたるその場所は天井が斜めになっていて、様々な商品の置き場も兼ねていました。私がそこで絵を描いていると、店でお酒を担当していた伯母がよく「おやつ」を作ってくれました。そこに積み置いてある米袋に似たずっしりと大きく茶色い袋を開け、中からスプーンで白い粉を掬うと、それを湯呑みに移します。砂糖を加え、沸かした湯を入れてスプーンでかき混ぜると、甘くて美味しいトロトロの「おやつ」の出来上がり。私はそれが大好きで、少しずつ大事に舐めるのですが、冷めてしまうとなぜかトロトロがビシャビシャになってしまって、そうなるともう魅力半減、ざらざらとした中途半端に甘いだけの水になってしまうのでした。それが、片栗粉で作ったいわゆる葛湯というものであると私が知ったのは、大人になってからでした。
おやつといえば、鯨ベーコンも大好きでした。うちの店は肉や魚も取り扱っていて、店内にはガラスの扉を横にスライドさせて開けるような大きな冷蔵ケースがいくつも置いてありました。そこには鮭の切り身などと一緒に、赤黒い身に白い油のついた、ずっしりと重い鯨ベーコンの塊がゴロゴロと置いてありました。私がぼーっとそれを眺めていると、じいちゃんが寄ってきて何も言わずにベーコンの塊を取り出し、柳葉包丁でスーッと大きくスライスしてくれました。私は、じいちゃんに差し出されたそれを受け取ると、店の奥へ行ってムシャムシャと食べました。少し塩辛くて油が美味しくて、じいちゃんの握るスラっと長い柳葉包丁のカッコよさの分、切りたてのそれは特別な味がしました。
夕方になると大人たちは忙しく、私と、私より二つ下の弟はよく「店の物を一つだけ選んで、奥で食べていなさい」と母に言われました。食パンに砂糖入りのマーガリンのようなものが塗ってある菓子パンが私は大好きで、商品棚から袋入りのそれを手に取ると、ウキウキと店の奥に行きました。お腹の空いている私はペロリとそれを食べてしまうのですが、食べ終わった頃になると決まって弟が、サッポロ一番みそラーメンの袋を持って休憩スペースに入ってくるのでした。弟はアルミの小鍋を流し台の下から取り出すと、小さな手で器用にラーメンを作り始めます。夕方の小腹を刺激する、何とも美味しそうなにおい。みそラーメンを優雅に味わう弟の賢さが羨ましく、私は手っ取り早く食べられる菓子パンに飛びついてしまった自分の浅はかさ、愚かさを呪い、明日こそは自分もラーメンを作ってやろうと心に誓うのでしたが、やはり次の日も私は、グリコのペロティや明治のアポロチョコ、果てはコーヒーガムといった全く腹の足しにならないものばかりを欲望のままに手に取ってしまって、ラーメンを食べる弟を横目に頭を抱えることになるのでした。
夕方の食料品店の忙しさが落ち着いたころ、母と弟と私は、店の近くにある自宅へと帰りました。追って帰宅する父は毎日の晩酌が楽しみといった人で、私はいつも、自宅の向かいの酒屋に据えてある自動販売機でビールを2缶買ってくるようにと母に言われました。母はタバコを吸う人で、タバコは本屋の横の、やはり自動販売機へ使いに行かされました。タバコは「〇〇マイルド」「〇〇ライト」のような、小学生には意味の分からないカタカナの名前のものばかりで、おっちょこちょいの私は言いつけられた銘柄と違ったものを買ってきてしまうことも多く、がっかりする母の顔を見てはいつも、またやってしまったと、褒めてもらえなかったお使いを後悔するのでした。酒もタバコも小学生が買いに行くことができた、何というか、牧歌的な時代でした。
商店の子だった私は大人になり、夫と独立して自営業者になりました。自分たちで立ち上げた商売で食べていけているよと、子ども達を育てることができたよと、亡くなったじいちゃんに伝えたかった。眼鏡をかけ、ループタイをし、腰には藍色の前掛けを着けた、胸幅の広いじいちゃん。終戦を経て、昭和の時代を商人として立派に生き抜いたじいちゃんを、私は尊敬し、その姿を間近に見ることができたことを幸せに思っています。
昭和50年代、ある食料品店の孫娘の話です。
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