黄色い花
南の方から、風が吹いてきました。
黄色い花の、ちょうど肩のあたりの二枚の葉が、ひろひろと揺れました。朝の陽の光は透明な白色で、空にはちぎれた雲たちが、思い思いにどこかの国の文字らしい渦巻きを描いていました。
黄色い花の足元に、蟻んこが近づいてきました。さわさわと触れる蟻んこの触角がこそばゆくて、黄色い花は思わずひゃっと声を上げそうになりました。黄色い花は少し恥ずかしくなって、きょろきょろと周りを見回すと、背を逸らし顎を引いて深く息を吸い込みました。朝の陽と冷たい空気が、茎に葉に沁みました。黄色い花は息を吐き出すのと同時に、思い切って花びらを少し大きく広げてみせました。勿論、誰もそれに気づくことはありませんでしたが、黄色い花は十分に満足でした。
東の空からつーっとツバメが飛んできました。ツバメは黄色い花の頭の上でくるりと向きを変えると格好よく首を下げて、地面にすたんと下りました。ツバメは何だか急いでいる様子でしたが、怒ったように早口で、黄色い花に向かってこう言いました。
「ああ、黄色い花さん。どうしても君に言いたいことがある。僕は東の方の国で、実に美しい色をした花を見たのだ。ああ、あれはすばらしかった」
「それはどんな色なのですか?」黄色い花は尋ねました。
「馬鹿なことを聞いちゃいけない。あれはとにかく美しい色なのだ。僕がどんなに話したところで、君にはわかるはずがない。ああ、じれったい、じれったい。君はまるでわかっちゃいない。君はそんな黄色はやめて、あの美しい色になればいい。いったいそんなところに生えてなきゃ、君を東の国へと連れて行ってあげるのに」
ツバメはそう言って、東の空へと忙しそうに飛んで行ってしまいました。
黄色い花がツバメの飛んでいくのを眺めていると、こんどは西の空からひゅーっとひばりが飛んできました。ひばりは黄色い花の頭の上でくるりと向きを変えると、右に左に首をかしげて地面にすとんと下りました。ひばりは何だか難しそうな顔をしていましたが、黄色い花に気付いたように早口で喋り出しました。
「ああ、黄色い花さん。あなたに言いたいことがある。私は西の方の町で、実にいい香りのする花に出会ったのだ。ああ、あれはすばらしかった」
「それはどんな香りなのですか?」黄色い花は尋ねました。
「馬鹿なことを聞いちゃいけない。あれはすばらしい香りなのだ。私がどんなに話したところで、あなたにわかるはずがない。ああ、じれったい、じれったい。あなたはまったくわかっちゃいない。あなたはそんな香りをやめて、あのすばらしい香りをまねたらいい。いったいそんなところに生えてなきゃ、あなたを西の町へと連れて行ってあげるのに」
ひばりはそう言って、西の空へと慌ただしく飛んで行ってしまいました。
「ああ、やれやれ。私はなんで黄色い花なんかでいるのだろう。そのうえまったく私ときたら、なにもかもわかっちゃいないらしい」
黄色い花はため息をつきました。空も雲も急に高く、よそよそしくなったようでした。肩の葉をしぼめると、黄色い花びらも自然に小さく閉じてしまうのでした。
南の道から、小さな鼠が現れました。鼠は鼻の先だけがやけに白く、ピンク色のしっぽはちぎれていて、鼠は短いそれをしきりに気にしている様子でした。鼠は黄色い花に話しかけました。
「ああ、黄色い花さん。あんたに言いたいことがある。あたしのいとこはもうすぐ結婚式をあげるんだが、あんたの黄色い花びらを編んで、花嫁のドレスにしたいのだよ。ああ、きっときれいなドレスになるだろう。どうだい、あんたの花びらを全部あたしによこしてくれないか」
「鼠さん、それは困ります。花びらを全部あげてしまったら、私は花ではなくなってしまいます」
「馬鹿なことを言っちゃいけない。あんたがきれいなドレスになれば、いとこはたいそう喜ぶはずだ。あたしがどんなに話したところで、あんたにわかるはずがない。ああ、じれったい、じれったい。あんたはまったくわかっちゃいない。あんたは黄色い花なんかやめて、きれいなドレスになるべきだ。いったいそんなところに咲いていてもどうにも仕方がないのだから、いっそその茎を齧り切って連れて帰ってしまおうか」
鼠は黄色い花の足元に跳びかかろうと、白い鼻先を地面につけ、お尻を持ち上げて構えました。
「ああそうか。私は色も香りもつまらない、黄色いだけの花なのだった。であればいっそ咲くのをやめて、鼠の花嫁のドレスになってしまおうか」
黄色い花が目をつむってぎゅっと身を縮めた、その時です。
大きな影が太陽を遮り、黄色い花に被さるように、にゅうううううと伸びてきました。それは人間の子どもの影でした。子どもは白い綿のワンピースを着て、太った両の膝小僧にえくぼをこしらえていました。子どもはひゃいひゃいと笑い声を上げながら黄色い花に素早く手を伸ばすと、あっと言う間にその細い茎を、足元からぶちりとちぎり取ってしまいました。
「ちきしょう、人間の子どもめ。黄色い花を持って行きやがった」
地団駄を踏む鼠には目もくれず、子どもはずんずんずんと歩いて行ってしまいました。蟻んこは子どもに踏まれないように、急いで巣穴に隠れました。子どもの湿った柔らかな手の中で、黄色い花はすっかり気を失ってしまいました。
***
黄色い花は、足元が冷たいのに驚いて目を覚ましました。
そこは丸太でできた小さな家の窓辺でした。黄色い花は水色のコップの中にいて、そのコップは、レースのカーテンがひらひらと揺れる出窓の木枠の前に置かれていました。ちぎられた茎の足元は水色のコップの中で透明の水に浸されていて、黄色い花はコップの淵にゆったりと寄りかかりながら、まんざらでもないような気がしました。
部屋の中に目をやると、窓を背にして大きな机がありました。机の上には読みかけの分厚い本が開いてあって、電気スタンドと万年筆と、こげ茶色のティーカップが置いてありました。やけに背もたれの高い椅子には白と黒の格子柄のクッションが敷いてあり、それはかわいそうなくらいぺしゃんこにくたびれているのでした。
黄色い花が机の上に目を凝らしていると、レースのカーテンの陰から声がしました。
「ねえ、あんた。あんたのことだよ。黄色い花さん」
声のした方へ振り向くと、そこには円筒形の鳥籠が吊るされていました。声の主は、鳥籠の中にいるオウムでした。オウムは小さく真っ黒な目と、ふわふわと豊かな灰色の羽を持っていて、控えめな白いとさかを頭の上に立てていました。
「ああ、オウムさん。こんにちは。いったいここは、どこなのでしょう」
「ここは眼鏡先生の部屋だよ。子ども達はみんな、先生をそう呼んでいる。黄色い花さんは丘の上から摘まれてきたようだね。遊びに来た子どもが言っていた」
「私は丘の上に咲いていたのですか。私は自分がどこに咲いているかなんて、考えたこともありませんでした」
「なんだって。信じられないこともあるもんだ。自分がどこに咲いているか、ちっとも考えないなんて。ああ、つまらない、つまらない。この黄色い花はまったく何にもわかっちゃいない」
オウムはあきれ果てたといった表情で、ぷいと向こうをむいてしまいました。
部屋のドアが開いて、眼鏡先生が入って来ました。眼鏡先生は痩せていて背が高く、アイロンのかかった縦縞のシャツを着て、呼び名の通り飴色の縁の立派な眼鏡をかけていました。
眼鏡先生はオウムの籠に目をやると、窓辺の水色のコップに目を移して、それから椅子に腰かけました。南風がレースのカーテンを揺らし、オウムのとさかが気持ちよく風になびきました。黄色い花は思わず背伸びをして、風の香りを嗅ぎました。
眼鏡先生は机の上に手を置くと、本の頁を一枚めくりました。そこには細かな文字たちとともに、一羽の鳥の絵が描かれていました。黄色い花はコップの淵からその絵を目にして、それはそれは驚きました。
「ああ、あれはツバメさんじゃないか。あそこにはツバメさんのことが書いてある。それならきっとツバメさんの言っていた、東の国のことも美しい色の花のことも、あそこに書いてあるに違いない」
眼鏡先生は、本の頁をまた一枚めくりました。
「ああ、こっちはひばりさんだ。あそこにはひばりさんのことも書いてある。それならきっとひばりさんの言っていた、西の町のこともすばらしい香りの花のことも、あそこに書いてあるに違いない」
黄色い花は、頭がぼうっとしてきました。そして何だかそわそわしました。もっともっと眼鏡先生が本の頁をめくってくれればいいのにと思いました。きっとそこには、丘の上のことも、空や雲や蟻んこや鼠のことも、全部全部、書いてあるに違いないのでした。
眼鏡先生は椅子から立ち上がり、机の上のこげ茶色のティーカップを手に取るとそのまま部屋を出ていってしまいました。
黄色い花は、眼鏡先生が行ってしまったことが残念でした。もっともっと眼鏡先生に本の頁をめくってほしいのでした。そして残念だと思うと急に、自分の足がずんずんずんずんと痛いことに気が付きました。
「そうだ。私の足は人間の子どもにむしり取られてしまったのだった」
黄色い花は泣きました。丘の上に帰って、太陽と月と星を見たいと思いました。丘の上を思うと涙は止まりませんでした。そしていつの間にか、黄色い花は眠りについてしまいました。
黄色い花は目を覚ましました。部屋の中は殆ど暗くて、いつの間にか窓にかけられた煉瓦色の重たいカーテンの隙間から、まあるい月が白く光って見えました。もう夜になったのかしらと、黄色い花は思いました。オウムは鳥籠の中でいびきをかいていました。止まり木に灰色の大きなお腹を乗せて、こちらを向いたままゆうらゆうらと、まるで起きているみたいに眠っているのでした。月の光は細長く、三角形に部屋に差し込んで、眼鏡先生がめくったらしい本のページを照らしていました。そこには、細かな文字と一緒に魚の絵が描いてありました。
「あれはいったいなんだろう?」
黄色い花は魚を見たことがありませんでした。それは葉っぱのような形をしていて、羽根もしっぽもないくせに目だけがぎょろりとし過ぎていると思いました。
その絵をしげしげと眺めながら、黄色い花はいいことを思いつきました。夜が明けたら、あの絵が何かをオウムに聞いてみようという訳です。
「そうだ、東の国のことも西の町のことも、全部全部オウムさんに聞いてみよう。鳥のことも花のことも太陽のことも月のことも、全部全部だ。オウムさんは眼鏡先生の部屋にいるのだから、きっと何でも知っていて、きっと何でも教えてくれる」
黄色い花は嬉しくなりました。最初に聞くのは丘の上のことにしようか、それともいつも見ている北の空の星のことにしようかと、考えるだけで胸がいっぱいになりました。いったいあの本の絵が何なのかも聞いておかねばなりませんでしたし、オウムならきっと何だって教えてくれるに違いありませんでした。
そういえば、今日はいろいろなことがありました。足もまだ痛かったし、いつもより少し頭が重たく感じました。それでも黄色い花は、朝が来るのが楽しみでした。肩のあたりの二枚の葉を胸の前に抱くように閉じると、丘の上を思い出しました。遠くで梟の低い声がして、オウムの白いとさかが少し揺れました。
黄色い花は、いつの間にかまた眠ってしまいました。
***
眼鏡先生が煉瓦色のカーテンを開けると、朝の陽の光は透明な白色で、朝霧に濡れた木々の葉をやわらかに照らしていました。窓の外では鳥たちが忙しく飛び回り、朝の食事の最中でした。オウムは眩しそうに小さな眼を開けて、うおうおとあくびをしました。
眼鏡先生は窓辺にある水色のコップに目をやりました。コップには昨日子どもが摘んできた小さな黄色い花が入れてあって、それはまるでおじぎをするように葉を閉じて小さく頭を下げているのでした。
眼鏡先生は窓を開けました。ひんやりと気持ちのよい空気が部屋に吹き込みました。眼鏡先生は水色のコップを持ち上げると、コップの中身を窓の外へ放り捨てました。きらきらと光る水滴と一緒に、黄色い花は窓の下の庭石にぱしゃりと叩きつけられました。黄色い花は冷たく濡れて、庭石の上に動きませんでした。
南の方から、風が吹いてきました。オウムのとさかが揺れました。
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