注意事項
私がいなくなってからの注意事項を書きます。よく覚えておいてください。
いえ、難しいことではありません。ほんの些細な事なのです。
晴れた冬の日。フラリと立ち寄った公園のカフェ。
あなたは洒落たカバーのついた紙コップのコーヒーを片手に、カフェの陽の当たるテラス席に腰掛けます。
まだ固い蕾の心なしかピンク色掛かって見える桜の木を向こうに眺めながら、あなたは熱いコーヒーを少し口に含みます。今年の桜は早そうだなとか、ベランダの鉢植えに今朝水やるの忘れてなかったっけとか、取りとめもないことを思いながら。
するとあなたの足元に、羽艶の今ひとつパッとしない小柄な雀が群れから外れてチュンチュンと近寄ってくるのです。
ああ、雀かと、あなたは何気なく目をやります。お腹を空かせて餌でも欲しがっているのかな、と思うでしょうか。もしかしたらあなたは、あっちへ行けと足で小さく蹴飛ばすフリをするかもしれません。
その時、その時です。
どうかその雀を、追い払わないでください。もしかしたら、その雀は私かもしれません。
雀の言葉しか話せなくなった私は、思いがけずあなたに会えた嬉しさと懐かしさに、その足元に近寄ろうとしてチュンチュンと鳴いてみせているのです。
ーお久しぶりですね、私です、お元気ですか、と。
いえ、私はヒヨドリや鳩みたいに大きな鳥にはならないでしょう。もっと小さく、特段珍しくも何ともない、日本中のどんな風景にも馴染み溶け込んでしまいそうな、茶色い雀になる気がするのです。中でもちょっと小柄で、左の足を少し引き摺った、生意気な目をして群れから外れがちな雀が、きっと私です。私はあなたと会えたことが嬉しく懐かしく、ほんのニ、三言だけでも言葉を交わしたいと近寄ろうとするでしょう。そして残念なことに、私が話せるのは雀の言葉だけなのです。
いいですか、もう一度言います。そんな雀を見つけたら、どうかどうか、追い払わないでくださいね。その雀はきっと、私です。
私からあなたに残す、たった一つの注意事項です。
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