墓参り


東京・早稲田にある寺へ、父と墓参りに行った。快晴の空は澄んで高く、動くと汗ばむような陽気だ。

親子で墓参りというのは世間的には取り立てて珍しくもない行為だと思うのだが、私と父の場合、二人揃って出掛けるのはおそらく15年か20年か、果たして記憶も曖昧なくらい久し振りのことになる。前回父に会った時、私は未だ車椅子ではなかった。思うところ色々あって、今回の墓参りは私が行きたいと父に連絡を取り、実現した。

父は私が何の病気であるかを詳しく知らない。病気であること、どうやら車椅子で生活しているらしいことは、おそらく孫(私の娘)を通じて数年前から知っていたようだが、連絡らしいものが相互に殆ど途絶えていたので、私から特に自分の重い病気を父に伝えることもしなかった(それぞれの家族にそれぞれの形がある)。

父が歩き慣れた寺への道。父が幼い頃に走り回っていた街。暫く振りに会った娘は驚いたことに本当に車椅子で、その娘と並んで墓参りへ向かう父の心中を想像してみる。


寺は早稲田大学に程近い場所にあって、都電の駅から寺へ向かう道沿いにはなんとも可愛らしい枝垂れ桃の花がころころと咲いていた。横断歩道を渡り、寺の入り口にある急坂を父に車椅子を押されながら登る。

墓には父の父、つまり私のとっての祖父と曽祖父、曽祖母、大叔父、大叔母が眠っている。墓のある寺から徒歩で2、30分程、牛込・矢来町に曽祖父らは居を構えていた。昭和20年5月に牛込一帯を襲った空爆で家は焼け、一時は千葉県・九十九里の親戚を頼り曽祖父母と父らで身を寄せていたが、終戦となり矢来町へ戻った。現在もその場所に親戚が住んでいる。


寺の敷地に入ってすぐ左手に水道があり柄杓と手桶が並んでいる。そのいくつかに私の結婚前の苗字が太くしっかりした筆書で記されているのを見る。線香を貰ってくる、という父の背中を見送り視線を周囲へと移す。寺の建物の横のこじんまりした墓地には日を浴びて静かに墓が並んでいる。木蓮の木が、満開の花を誇って空へと太い枝を広げていた。

彼岸の平日、墓地には私たち以外に人はいない。私は父に従い、祖父らの墓に近づくため車椅子で敷石の上をガタゴトと慎重に歩く。父がこちらを振り返り、そこから先車椅子で行くことは難しいと分かると私は車椅子をロックし恐る恐る立ち上がった。持ってきた杖を使い(握力が頼りなくても使えるような、肘まで支えのある大きな杖だ)、墓と墓の境を示す石に手をつきながら一歩ずつ祖父らの眠る場所へと近づく。


墓の前に立つ。父が墓に水をかける。今日は暑いくらいだから水をかけてもらって気持ちいいんじゃないかな、と私は言ってみた。墓の写真が撮りたいと求めると、父が私のスマホで何枚か墓を撮影してくれた(私の手は不自由でおまけに片手は杖で塞がれている)。墓石のてっぺんが少しフレームアウトしていた以外はよく撮れている。線香を供え、父が手を合わせる。私は杖に半身の体重をかけながら、片方の手だけを胸の前に拝むようにして父の隣で目を閉じた。


墓石には、茶道華道のほか書も教えていたという曽祖父の文字を写して、句が彫ってある。

「おらが家は屋根より月の出入りする」

空襲で焼け野原となった土地にバラックを建て、屋根の隙間に月夜を見上げて戦後の混乱を生きた曽祖父が詠んだ句だ。「盧洲」という号も句に添えて彫ってある。父が中学生の時に亡くなった曽祖父に勿論私は会ったことがないが、跳ね流れるような文字に酒好きで風流人だったらしい曽祖父を想像する。

墓石の手前にある石に祖父らの戒名が彫ってある。太平洋戦争に出征し昭和19年に硫黄島へ向かう洋上で戦死した祖父と、同じ戦争でやはり軍人として亡くなった祖父の弟の戒名にはいずれも「勇」の文字がついている。一方の曽祖父は生前に自分自身で戒名を決めていたらしく、そこにも曽祖父という“人”が文字になって残っている。私は曽祖父を知らないが、まあそうだろうな、と思った。どこまでも自分として、自分であることを表現して生きていたかった人ではかなったかと、私は自分との面倒臭い共通点を自然と探していた。


寺を出て都電の駅へと向かう帰り道、お前が来てくれて親父も爺さんも喜んでいるよ、と父に言われた。何とも言えずさっぱりとした気分がして、嬉しかった。

街路樹のこぶしが、春の日に正々堂々と白く咲いていた。


書くこと。生きること。:Hiromi's Blog

書くこと。学び、考えること。難病ALSに罹患し、世界や自分のあり様を疑う戦慄の時間。生きた証として書いていきます。 satohiromi.amebaownd.com/