いやニャ話
動物の映像に人間がアテレコをするのは嫌いだ。
テレビやネットの動画などでたまに見かける、「気持ちいいワン」とか「嬉しいニャー」とか、「散歩に行きたいワン」とか「お腹空いたニャー」とか、主にペットの映像なんかに字幕や人の声でセリフを付け加えたアレである。目にするたび私はモヤモヤムカムカして、いやだニャーと思う。この動物はこんな風に思っていると信じたい、そしてこの動物にそれを言わせたい、っていう人間の欲望、都合から、動物に押し付け言わせているセリフ。でもね、相手が動物とはいえ、他人が勝手に思っていることを代弁しちゃダメじゃないの?と思う。そんな暴力、動物相手にだって働いていいの?と。
「ご主人様~遊んでニャー」なんてアテレコ、飼い主の希望的妄想だ。本当のところニャンコは飼い主のことを「ご主人様」なんて全く思ってはいなくて、「仕方がない、面倒だけれどまたコイツに付き合ってやるか」くらいに考えているのかもしれない。ペットに懐かれたい、求められたいと思っている飼い主の妄想が生み出しているセリフを、ペットが人間の言葉を話さないのをいいことに、彼らから"言葉"を奪い、彼らに言わせたい言葉を押し付けているだけのことだ。
動物への愛情(と人間が勝手に思っているもの)とセットだから許されてしまう行為だとでもいうのだろうか。でもそれって本当に愛情なのかなぁ。もし私だったら、思ってもいないセリフを勝手にアテレコされるなんて絶対に嫌だ。それに、セリフを言わせたい場面だってその内容だって、人間の身勝手な都合次第、意のままだろう。食肉用に出荷されようとしている牛に、「殺されたくないモー、もっと生きていたいモー」とはアテレコしないだろう。それとも「美味しく食べてモー」とか言わせちゃうのかな。コワい。いずれにしても我々人間が都合のいいように動物たちの”言葉”を奪い、我々に都合のいい言葉を、思惑を押し付けていることに変わりはない。もしこれが動物ではなく、人間に対して行われることがあったらと思うとゾッとする。いや、もう行われているのかもしれない。
前々からずっと嫌だなぁと思っていたことがある。主にテレビ番組で、外国の人が話しているインタビュー映像などに日本語で付ける吹き替え、アテレコについて。
農村や田舎に住む人のインタビューには、わざわざモッサリと酷く訛っていて洗練されない日本語をアテレコしたりする。実際には理路整然とスマートに話しているかもしれないのに、どんな悪意からこんな妙な言い回しをあてがうのだろうと、聞いていて嫌な気持ちになる。高齢者には年寄臭い言葉と弱々しいしゃがれ声でアテレコをする。若く派手目な女性にはキャピキャピと知性のかけらも感じさせないような話し方でアテレコをしてみせ、スーツを着た壮年の男性には重厚で落ち着いた話し方でアテレコする。これってズルくないか?偏見、印象操作だと私は思う。
さらにその人の住む国や人種、職業などによってアテレコの話し方を変えていることもある。白人の男性政治家と黒人のスポーツ選手と客待ちをしているトゥクトゥクの運転手と難民キャンプで子を抱く母親とローマ・カトリックの高僧とアフリカの田舎の露天商の娘と、皆それぞれの「それっぽさ」を、たとえば間延びした語尾だったり、妙なイントネーションだったり、自信なさげな声色だったり、堂々と響く低い声だったりといった演出を施されて、アテレコがされる。映像を見ている方は、それぞれの「それっぽさ」=ステレオタイプ、偏見に引きずられて、その言葉がどのくらい大事なものなのか、その話にはどの程度信憑性があり真剣に受け止めるべきものなのかといったことを、話の内容とは別の尺度で判断させられてしまう。もう既に頭の中に深くどっしりと根を張ってしまっている我々のステレオタイプは、こうして「それっぽさ」という肥料をせっせと与えられ、「やっぱりそうだ」という安心感の光に照らされて、益々すくすくと肥大化していく。そして、やっぱり若い女はバカだなぁとか、オバサンたちはものを知らないなあとか、スーツを着たオジサンたちは落ち着いていて頼り甲斐があるなぁとか(!)、しょうもない偏見は何度でも再生産されぼってりとした重たい澱となって社会全体に沈殿していく。そして本当に伝えたいはずの”言葉”は偏見によってスポイルされ骨抜きに力を奪われて、誰かの思惑通りの服を着せられ化粧を施されて棚に並べられていく。
さらにもう一つ。ニュース・ショーで背景として多用される音楽、BGMも私は大嫌いだ。
あるニュースにはおどろおどろしく恐ろし気な音楽を背景に流し、別のニュースでは明るく希望的な音楽を使う。「このニュースはこんな風に解釈して、受け止めてね」って、視聴者を暗に誘導するやり方だ。近所の河川敷で野宿している人がいる、なんていう程度の話題に、これでもかと不安げで暗い音楽を流し、声のトーンを落とした不気味なナレーションをつける。こうした人たちへの印象を悪いものにしたいという制作者のいやらしい意図が透けて見えて、吐き気がする。逆に、好意的に受け止めて欲しいと思っているらしいニュースには、明るい音楽とハツラツとした声のナレーションが添えられる。裏にどんな思惑や利害があるのだろうかと勘繰りたくなる。理解するための”額縁”を無理矢理にあてがわれているような気がして実に不愉快だ。しかも気付かれないようにコソコソとやられている気がして、その姑息さにゲンナリする。
“言葉”を奪われるのも、ステレオタイプを押し付けられるのも、理解の仕方を強要されるのも、私はまっぴらごめんだ。
オレたちから"言葉”を奪うニャ!
0コメント