『雪の花』


吉村昭『雪の花』の舞台は江戸末期。天然痘の画期的な予防方法であった種痘をめぐる記録小説である。吉村昭記念文学館の企画展「医学小説-伝染病予防に奔走した人びと-」に合わせ、同じく種痘に触れた『北天の星』『花渡る海』と共に読む。

天然痘は罹患した人の多くが死に至る重い感染症で、日本のみならず世界中で大流行し、人びとを恐怖に陥れた。1796年にイングランドのジェンナーが牛痘法よる予防を考案したが、当時の日本は江戸幕府の鎖国政策下にあり、その技術が日本に導入され広く使われ始めるのは数十年も後のこととなった。

『雪の花』の主人公、笠原良策は福井藩の町医である。種痘という西洋の予防医療の存在を知った良策は、天然痘で苦しむ人びとを無くしたいという一心から、その画期的な医術を一刻も早く導入し広めるため、私財を投げ打ち東奔西走する。今でこそ、そうした公共心的なものの考え方は、ある程度一般に理解され共有されているように感じるが、人権や自由といった概念を未だ人びとが持たず、幕府や藩の意志、命令がすべてであったあの時代に、一町医として権力に働きかけ、ただひたすら人びとのために力を尽くした良策は、そのずば抜けた意志の強さと行動力のみならず、進歩的な考え方の持ち主でもあったのだろうと思う。

強烈な鎖国の時代、外国から新しい学問や技術を導入するというのは並大抵ではなく、種痘を広めたい良策にとって頑迷固陋な役人たちとの折衝は難事業だった。彼らの保身や怠惰や無知によって、良策がその折衝に費やされねばならなかった長い間にも、多くの民が天然痘に苦しみ死んでいった。役人根性、などと言ってしまえば公僕として誠実に職務をこなす方々には申し訳ないが、いつの時代もこうした精神性は私たち一人ひとりの中に根深く巣食っているのだろうと考える。さらに良策にとって、画期的な西洋医学の技術に怯え、まったく受け入れようとしない民衆の理解を得ることは役人との駆け引き以上の困難であった。牛痘を用いた医術を怪しみ恐れる人びとから石を投げつけられたりもした良策であったが、それでも粘り強くその必要を説き続け、苦心の末に、良策は故郷である福井をはじめ北陸の近隣諸藩に種痘を広めてゆくことに成功する。

先進的医療を妖術だと怪しむあの時代の人びとに、私は思わず、SNS上のデマや陰謀論に踊らされワクチン接種拒否を叫ぶ若者たちを重ねた。私たちは常に、科学的な正しさに対し謙虚でなければならないし、自分の中の知的怠惰や思い込みとも闘い続けなければならない。


【吉村昭記念文学館】

企画展「医学小説-伝染病予防に奔走した人びと-」で『雪の花』が特集されています

https://www.yoshimurabungakukan.city.arakawa.tokyo.jp/

【第14回トピック展示「吉村昭と太宰治賞―55年前の出発点―」】

太宰治の自筆原稿 「人間失格」限定公開だそうです。7/1~

https://www.yoshimurabungakukan.city.arakawa.tokyo.jp/manage/contents/upload/60c817432f79a.pdf?idSubTop=3



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