トモニ、イキル

「僕たちのような若い世代は損だ。少子高齢化で将来は年金もろくに貰える保証が無いのに、なんだか大勢いる年寄りの面倒を一方的にみるばかりで不利じゃないか。年金をたっぷり貰えて悠々老後を暮らせる今の年寄りたちと比べたら、自分たち若い世代は、まったく割を食ってばかりで不公平だ。」

こんな話を若い人たちがするのを、たまに耳にしてしまう。確かに日本における少子高齢化はのっぴきならない現実なのだろうし、年金の財源に対する将来的な不安については私自身も感じているところがある。しかしここで私が試みたいのは、「自分たちは負担ばかりの損な世代」と(おそらく、かなり感覚的に)言い切る若い人たちに対する反論だ。特に高齢者に対し、若者におんぶに抱っこで仕事もせずぬくぬくと苦労無しに生活できているズルい人たちだと、まるで社会の厄介者であるかのように決めつける論調が、私はとても気にくわない。ズルいのは、そんなことを口にする君たちの方じゃないか、と。


「自分たちばかり損をしている」と主張する若者たちに言いたい。君らが生まれてから今まで、どれだけ大人たちの、社会の、世話になってきただろうか。君らは母親の胎内にいる時から、よちよち歩きだった頃、小学校、中学校、高校、大学と、完璧とは言えないまでも、あらゆる面で社会的に手厚く守られ、保護されて育ってきたはずだ。君たちの健やかな成長のためにと、君たち一人当たりに対して費やされてきた公的、私的な金銭だって相当な額にのぼるだろう。家族はもとより、国や自治体や地域社会や、学校やPTAや学童クラブや地域の子ども会や、数え上げたらキリがないほどの大人たちが、”われわれの子ども”として君たちを大切に扱い、その成長を大事に見守ってきた。社会全体が、未来ある子どもたちのいのちを直接間接に育んできたのだ。

加えて言うなら、君たちが今生きているこの社会の基盤、医療や福祉や教育や文化や社会保障や、この国の平和や技術力や経済力や国際的な信用や、そんなものだって当然のように今ここに存在するわけじゃない。君らの先輩たちが非常な努力や苦心の末に、生み出し、創り上げ、獲得し、育み、死守してきたのだ。そして今私たちはその土台の上に、日々の生活をおくることが出来ている。それらは私たち一人ひとりが生まれながらに所与のものとして、この手に握っているのではない。何一つ、最初からあって当然のものなんてないんだ。


自分たちにとってメリットのあるものはすべて、まるで自分たち自身で獲得してきたものであるかのような態度で当然のように享受し、利用し放題に利用しておきながら、他者のため少しでも負担と感じるものはその一切を拒絶して、自分らばかりが損をしていると屁理屈を捏ね口を尖らせる。そんなアンフェアで甘ったれた料簡は、君たちの「自分たちばかり損をしている」という主張は、視野とバランスと公平性とを著しく欠いた極めて利己的なものだと、私は感じざるを得ない。

誰かが誰かを支えている。誰かが誰かに支えられている。それは世代を超え地域を越え立場を越え、巡り巡って無限に複雑で大きな循環を作り上げている。われわれは誰一人例外なく、その中で生きているのだ。どこかの世代だけが一方的に得をしているとか損ばかりだとか、自分たちだけが頑張っていて誰かたちはまったく怠けているとか、自分の属する集団だけが生きるに値する存在だとかそれ以外は厄介者で生きる価値が無いとか、そんなバカげたことなど断じてありはしない。われわれは、われわれ同士を分断させようとする言説に、思惑に、罠に、決して絡めとられてはならない。われわれは、どんな世代であれ立場であれ個性であれ性別であれ出自であれ人種であれ、一人ひとりが対等であり、一人ひとりが対等に、無限に複雑で大きな支え合いの環の中にあるのだ。


共に生きよう。



書くこと。生きること。:Hiromi's Blog

書くこと。学び、考えること。難病ALSに罹患し、世界や自分のあり様を疑う戦慄の時間。生きた証として書いていきます。 satohiromi.amebaownd.com/