無題20210810

私は日頃、あまり外出をしない。外出したくても出来ないでいる、というのではなくて、そもそも私は外出したいとあまり思わない。正確に言えば、病気を発症する数年前までは好きだったのだが、電動車椅子でないと出掛けられない身体となった今は、ほとんど外出をしたいと思わなくなった。こんなことを言うと、歩道の凸凹やスロープの未整備など物理面を話題にされてしまいがちなのだが、私の外出したくない理由は、まったく別のところにある。

私が外出時に感じるしんどさの中身。それは、極端に”見られる”ことと、同時に、極端に”見られない”ことへの居心地の悪さであり、私抜きの世界が、その世界への闖入者である私に対して見せる困惑やこわばりを私自身が感じてしまうことの、居たたまれなさである。ある種の人たちが極端に”見られない”でいた結果として出来上がったこの世界の中で、存在をまともに想定すらされていない異物として、あるときは不躾にジロジロと見られ、あるときは精一杯見ない振りをされて、自分が扱いあぐねられ戸惑われているのを肌で感じてしまう苦痛であり、互いに尊重し合い語り合うべき対等な相手として認識されず、日常の退屈さをほんの少し紛らわす程度の物珍しさや感傷を提供する奇異で不自然な存在として自分がそこにいなければならない、かなしさである。極端に”見られ”、極端に”見られない”とき、「ここは自分がいる場所ではない」ということを、私は強烈に感じずにはいられない。

こんなことを口にすれば、あなたの考え過ぎだとか被害妄想だとか、そんな気弱なことを言っていないで堂々としているべきだ、などと私の個人的な苦しみ丸ごとあっさり全否定されてしまうか、そうでなければ、「車椅子の人を見たらかわいそうだから、見ないようにしているだけ」と、だからその程度のぎこちなさくらいあなたの方こそ我慢しなさいと、諭されてしまうのがオチなのだと思う。

では果たして本当に、「車椅子の人を見たらかわいそう」なのだろうか?街の中で車椅子の私と目が合い慌てて私から目を逸らす人が大勢いるのに、一方でなぜ「愛は地球を救う」などと念じ涙しながら車椅子の人を熱心にテレビで見たがるのだろうか?小さい頃、ワクワクしながらテレビで観た小人プロレスは視聴者からの猛クレームを受け放送されなくなってしまったというのに、なぜパラリンピックはテレビ中継されるのだろうか?なぜ”見てはいけない障害者”と”見てもいい障害者”がいるのだろうか?”見てはいけない人たち”を一方で作りながら、真にインクルーシブな社会などあり得るのだろうか?

目を見て、語り合おう。われわれはどんな世界で生きたいかのか、を。



書くこと。生きること。:Hiromi's Blog

書くこと。学び、考えること。難病ALSに罹患し、世界や自分のあり様を疑う戦慄の時間。生きた証として書いていきます。 satohiromi.amebaownd.com/