祖父への旅-2

私の祖父は、硫黄島近海で戦死した。私は父から、そう聞いた。祖父が出征したとき父はまだ幼く、その頃の記憶はまったく無いという。私は祖父のことを調べ始めることにした。


私が祖父のことを知りたいと思った理由は二つある。

一つ目に、私の余命があとわずかであること。自分の命の終わりを目前に、このまま大事なことを知らずに死んでしまってはいけないと、私は強く感じた。私は孫娘として、祖父のことを知りたいと心に強く思った。まだ自分が生きているうちに、どうしてもやりたい、やらねばならないと理解した。南の海に眠る祖父が、それを待っているような気がした。

そして二つ目に、小説や映画に描かれるような有名な政治家でも伝説的軍人でもない、市井の若い男の短い人生に、祖父のその一分の一の人生に、妻と子を残し兵隊として死んだ若い男の一つの命に、今を生きる者である私は、触れようとし、辿ろうとし、近づかねばならないと感じた。それがあの戦争を知ろうとすることであり、一人の人がその人として生き、その人として死んでいくことについて考え続けるということなのだと思った。泥だらけの地べたに立ち、この二つの眼で、一つの生のありように向き合いたいと私は思った。


父の話では、祖父は洋上で戦死したために、その遺骨が遺族にかえされることはなく、早稲田にある祖父の墓には戦死公報の紙片が入れられているはずとのことだった。戦地へ行った祖父に関することを知る親戚は既に少なく、心当たりがあっても高齢で伏せており詳細を尋ねることは不可能だった。

調べていくうちに私は、厚生労働省や都道府県に対し、故人の軍歴の情報開示請求が出来ることをインターネットで知った。私は父に協力を求め、早速手続きをとった。

約一月後、東京都の援護恩給担当という部署から資料が送られてきた。内容はほんの数行程度のものであったが、それによると、祖父の所属部隊は「独立速射砲第九大隊」、階級は「伍長」、戦死した場所は「小笠原諸島父島附近」、戦死した日は「昭和19年7月4日」とあった。7月4日。アメリカ合衆国の独立記念日である。


祖父は大正2年、東京市牛込区(現在の新宿区)に生まれた。祖父の父である曾祖父は茶道の先生をしていて、家にはいつも大勢の弟子たちが出入りしていた。曾祖父は号を芦洲と名乗り、俳句を嗜み、華道も教えていたという。優しい人だった、と父が語る曾祖母との間には四男四女があり、祖父は長男だった。

祖父は大学卒業後、横浜にある貿易会社の勤め人となった。絹を扱う会社であったらしい。カメラが趣味で、押し入れに現像のための暗室まで作ったという祖父は、新潟県長岡出身の若い娘と出会い、妻に迎えた。私の手元に、祖父が撮影したという祖母の写真がある。どこかの公園の池のボートの上で撮ったらしいその写真には、モダンなブラウスを身に着け、帽子を斜めにかぶった女性がセピア色に微笑んでいる。二人は本牧に住まいを構え、一男一女をもうけた。若い妻と幼子二人を抱え、祖父はこれからというときだった。


祖父が従軍するのは二度目だったらしい。一度目は日中戦争だったという。そのときのことは詳しくはわからない。復員して、再び召集されたことになる。昭和19年。戦局は悪化の一途を辿っていた。

祖父が所属した独立速射砲第九大隊は小笠原兵団に属した。小笠原兵団を指揮したのは栗林忠道・陸軍中将である。昭和19年6月28日。独立速射砲第九大隊、小久保蔵之助少佐以下総勢344名は、特設輸送艦・能登丸で横浜港を発った。能登丸にはほかにも、歩兵第百四十五連隊、独立速射砲第八、十~十二大隊、中迫撃砲第三大隊らが乗り込んでいた。

伊号輸送作戦と呼ばれたこの作戦は、軽巡洋艦・長良を旗艦として、同・木曾、同・多摩、駆逐艦・若葉、同・初春、同・旗風、同・汐風、同・皐月、同・夕月、同・冬月、同・松、同・清霜、海防艦・四号、一等輸送艦・四号、二等輸送艦・一〇四号、二等輸送艦・一五二号、二等輸送艦・一五三号、特設輸送艦・能登丸、輸送艦・一〇三号、輸送艦・一〇五号、という編成であった。祖父が乗り込んだ能登丸は、三菱長崎造船所で造られた総トン数7,100トンほどの船で、日本郵船所有の貨物船であったが徴用され陸軍輸送艦となった。

能登丸は横浜港を出て二日後の6月30日5:00、東京から南約1,000キロに位置する父島に到着した。小笠原方面の拠点は父島であった。サイパンでの日本軍劣勢を受け、次なる本土防衛の要は硫黄島だと言われていた。硫黄島は父島からさらに南南東へ280キロの距離にあり、文字通り硫黄臭の漂う熱い地面を持った島で、飲料水を雨水に頼らねばならないような、荒れて渇いた土地であった。住民たちもあったが、昭和19年に強制疎開を余儀なくされた。

小笠原方面作戦に関する記録を調べると、能登丸は7月3日には横浜港へ帰投している。おそらく父島で兵と荷を下ろし、本土へと戻ったのであろう。旗艦である軽巡洋艦・長良も、硫黄島までは行っていない。大型の戦艦や輸送艦は、米軍の空襲の恐れもあり港も未整備な硫黄島へは近づくことなく、父島でのそれぞれの任務を果たし横浜へと帰ったようである。祖父はおそらく6月30日に父島で能登丸を降り、小型の輸送艦に乗り換えて硫黄島へ向かったのだと考えられる。


戦史叢書や硫黄島関連の書籍等いろいろと調べたのだが、ここからの祖父の足取りを追うのは難しかった。

祖父が戦死したという7月4日、米機動部隊は大挙して小笠原方面に来襲、艦砲射撃を加えている。戦史叢書によれば、硫黄島では7月4日、米軍戦闘機延べ350機による空襲があり、日本軍は所在戦闘機が使用不能となる大損害を受けた。父島、母島方面も同日、延べ約100機の米軍機が来襲、輸送艦五隻(合計約一万トン)、艦艇一隻、第二十一特殊漁船隊の機帆船十五隻が沈没または炎上した。7月4日はアメリカ合衆国の独立記念日であることから大規模な空襲があったものと考えられ、祖父はおそらく、この空襲により被害を受けた輸送艦のいずれかに乗り込んでいて命を落としたのではないかと考えられる。

ちなみに、摺鉢山頂上で米軍兵士たちが星条旗を掲げる写真で有名な「硫黄島の戦い」は、翌昭和20年2月から3月にかけてのことになる。同戦闘で日本軍は激しい抵抗を見せながらも玉砕。日本軍は約18,000人が戦死、捕虜となった者1,023人、米軍の戦死者6,821人、同戦傷者19,217名に上った。


6月28日、輸送艦・能登丸で横浜港を発った祖父は、硫黄島での任務に就くことなく、7月4日に死んでしまった。家族の待つ横浜の港を離れ、たった一週間で、祖父の命は南の海に消えてしまった。あまりにも、あまりにもあっけなく。祖父はいったい、何のために兵隊になったのだろう?何のために船に乗り、何のために南の島へと向かったのだろう?若い妻と幼子を残し、祖父はなぜ、死なねばならなかったのだろう?

同時に、こうも考える。短い人生のうち二度、皇軍の兵隊として銃を手にした祖父は、祖国のため、天皇陛下のためにと、誰かを傷つけたことがあったのだろうか?私は祖父の死を、どう悼んだらいいのだろうか?私は戦争というものをどう考え、これからどう生きたらよいのだろうか?

命の時間の、最後まで。私は考え続ける。



書くこと。生きること。:Hiromi's Blog

書くこと。学び、考えること。難病ALSに罹患し、世界や自分のあり様を疑う戦慄の時間。生きた証として書いていきます。 satohiromi.amebaownd.com/