無能の人

過去のテレビドラマを観るのは面白い。
テレビという、視聴者の反応や流行などに敏感な媒体で放送される映像作品だけあって、そのドラマの制作された当時の、世の中の空気や社会的な興味関心がそこかしこに見て取れて、とても興味深い。
例えば今から 10 年前にテレビ放送されたような「つい最近」のドラマであっても、登場人物たちの言葉遣いや生活のありようや価値観や、背景に見て取れる”世間の常識”みたいなものが現在とはもう大分”ズレた”ものに感じられて、あの頃は当たり前に受け入れられていたはずなのに、いったいいつの間に、自分(世間)の感覚が変わっていったのだろうと驚く。私にとって“当たり前”のありようを見せ続けていたはずの眼前の世界が、フワッと浮き上がりその輪郭を不確かにする瞬間である。

私はいわゆる警察もののドラマが好きで、自室のベッドに備え付けてあるパソコンの画面で、刑事ドラマやミステリーばかりを好んで観ている。つい先日も、数年前に放送された、警察を舞台にした連続ドラマを観ていたのだが、出演者に好きな俳優が顔を揃えているということで楽しみにしていたにも拘らず、残念ながら私にとってその内容は愉快なものではなかった。
そのドラマは人気小説が原作らしいが、設定やストーリーはマンガ的であった。優秀な頭脳を持つがかなりの変わり者、という捜査員たちが主人公で、周囲との小さなトラブルはありながらもその高い能力を使って難事件を次々と解決していくという、警察ものにおける一つの王道パターンを踏襲していた。
ここまでは過去数々のドラマにおいて繰り返し見られたいつもの様式であったのだが、残念ながらそのドラマには、私が思わず嫌悪感を覚えてしまう要素があった。

警察の捜査員である主人公たちは全員、何らかの神経症であったり精神面で困難を抱えていたりする人間、という設定であった。ひきこもりで極度の対人恐怖症というリーダーを筆頭に、極度の閉所恐怖症や極度の先端恐怖症(それが行き過ぎて、他人の”言葉のトゲ”にも傷つきやすく発声困難を生じさせ人と話すことができない)等々であるという、〈致命的な欠点〉(番組公式サイトより)を持つ人間として、主人公たちは描かれていた。
神経症的な生きづらさを抱え、人とのコミュニケーションがまったくの苦手で“場の空気を読まない”発言や行動を繰り返し、組織内で異端視されるメンバーたち。しかし彼らは全員がとび抜けて優秀な頭脳に恵まれており、ノーベル賞候補級の科学者や天才的プロファイラーといった、科学的捜査において超ド級の人材なのであった。
彼らは〈致命的な欠点〉と同時に併せ持つその超絶優秀な能力ゆえに、特殊捜査班に召集され数々の難事件を解決へと導く。彼らは徐々に周囲に認められるようになり、警視庁内における立場も変わっていく。〈強さと弱さをあわせ持つヒーロー〉(番組公式サイトより)なのである。

一気に私は、イライラする。ここまで”別格”でないと、彼らは受け入れられないの?と。

テレビドラマの中に限らない。現実世界においても、"われわれ"はよく話題にするはずだ。神経症や障害や不治の病や、何らかの〈致命的な欠点〉があるにも拘らず、スポーツやアートや音楽や学問や、あるいは不屈の精神力や魅力的な人柄や前向きな行動力や、その他いろいろの卓越した能力でその〈致命的な欠点〉という"ハンデ"を埋め合わせてしまうスゴイ人たちのことを。”われわれ”はこうした人たちを安心して評価し、褒め称える。しかし、彼らがいかに激賞されても、私は気にくわない。なぜならそこには、称賛する側の優越感情が透けて見える気がするから。

「あんな風な〈致命的な欠点〉があるのに、一方でこんなに特殊な能力を持っていてスゴイ」「〈致命的な欠点〉のある気の毒な人なのに、普通の人みたいなことができているのを見て感動した」「私はあそこまでダメではないのだから、もっと頑張らねばならないと思った」「劣っていてカワイソウな人が頑張っているのを見て、勇気をもらった」…

〈致命的な欠点〉(マイナス)があったとしても、卓越した能力やひたむきな努力(プラス)でそれを埋め合わせ"われわれ"の水準まで達することができるのであれば、"われわれ"と同じ一人前の人間として認めてやろう。そして、〈致命的な欠点〉を持つ彼らと”われわれ”とは別種の人間であってその根本的な〈優劣〉において超え難い差があるのだから、彼らがどんなにスゴくてもエラくても永遠に"われわれ"を脅かすことはなく、ゆえにいくらでも手放しで褒めてやろう。"われわれ“は寛大で理解ある人間たちなのだから―


テレビドラマの主人公たる彼らには、設定上たまたま都合よく、〈致命的な欠点〉と共に優秀な頭脳という神からのギフトが与えられていた。ではもし彼らに、その特殊な能力が、世界レベルの優れた頭脳が無かったとしたら、どうであったろう?もし〈致命的な欠点〉を持つ彼らが、私と同程度の凡庸な脳ミソしか備わっていない人間であったなら。彼らを必要としてくれる周囲や仲間や社会は、はたして存在したであろうか。〈致命的な欠点〉というマイナスは、生涯、プラスで埋め合わされぬままに、対人恐怖症の彼は自室のドアに何重にもカギをかけ、心を閉ざしひきこもり続けていたのだろうか。”われわれ”は、彼らが彼らとして存在することを、知ることがあったろうか。

このドラマが放送されすでに 7 年が経つ。東京パラリンピックが開催され「共生社会」がヒステリックに叫ばれ続ける今、〈致命的な欠点〉を持つ彼らにとって、この世界の「生きにくさ」は少しでも解消されたのだろうか。この作品世界を成立させるもの、”われわれ”の心の奥にあるものは、変わったのだろうか。


書くこと。生きること。:Hiromi's Blog

書くこと。学び、考えること。難病ALSに罹患し、世界や自分のあり様を疑う戦慄の時間。生きた証として書いていきます。 satohiromi.amebaownd.com/