成功者の傲慢と自己責任について

何度でも言いましょう。私が伝えたかったのは、こういうことです。

「上手くやれている人」と「そうでない人」がいる。そんなとき、「上手くやれている」ことの原因を、「その人が人一倍努力しているから」ということにのみ求めようとするのは正しくない態度である、ということです。

では今現在、「上手くやれていない人」たちは、努力が足りない怠け者ばかりなのでしょうか?いえ、そんなはずはありません。たまたま運が悪かったり、環境に恵まれなかったりする人もいるでしょう。誰もが目を見張るようなとてつもない努力を積んだとしても、本人の責めに帰さない負の偶然がいくつも重なって、結果として残念ながら上手くいかないといった事態だって、決して珍しくはないはずです。

であれば、逆も言えるはずです。「上手くやれている」ことの原因にも、さまざまな偶然の要素が含まれるのではないでしょうか。

平和で安全な国に生まれ落ちたこと。愛情に溢れ経済的に恵まれた家庭に育ったこと。紛争や大事故や重大犯罪に今まで巻き込まれなかったこと。友人や理解者らに巡り会えたこと。そうしたことの原因のすべてを、「上手くやれている人」の努力の結果であり手柄であると考えるのには、当然に無理があります。そこにはいくつもの偶然の要素が含まれているからです。その偶然は、上手くいかなかった人に降りかかってしまった残念な偶然と同じように、偶然です。


「上手くやれているのは自分の努力のおかげである」と言いたい心情は理解します。確かに自分はもの凄く努力してきたし悩み考え続けてきたのだ、と言いたい気持ちはわからなくはないのです。そしてそれは、(人一倍、などという基準はさておくとして)おそらく事実なのでしょう。しかし一方で、その努力や苦悩は「上手くやれている人」だけがしてきたのではないということも事実です。そして、いくらがんばりたい、努力したいと願っていても、その努力をすることさえも叶わない個人的状況や社会環境や、その努力を一瞬で吹き飛ばしてしまうような不運とも呼べる偶然だってあるのです。

「上手くやれている」ことの原因も「やれないでいる」ことの原因も、すべてはその人のがんばり次第、などというたった一つのシンプルな理屈では説明し尽くせない、実に複雑なもののはずです。


「上手くやれているのは自分の努力のおかげである」という思い込みは、一方で「あなたが上手くやれなかったのは、あなた自身の努力が足りなかったことの結果である」と決めつけてしまうことと変わりません。そしてそれは、自己責任論そのものです。

すべては当人の努力次第、という能力主義は、一見、自由で開かれた競争であるかのように感じられます。しかしそれは、自らの裁量や努力ではどうにも覆せない偶然による状況に置かれてしまった人たちに対し、努力不足の怠け者、という一方的で間違ったレッテルを貼り付けかねない、実に危うい考え方です。努力を尽くしたにもかかわらず、たまたま不運にも上手くいかなかった人たちを取り残し切り捨てる、自己責任論の考え方と表裏一体です。

「がんばった人が報われる社会を」などと、どこかの政治家は連呼しますが、それは、「結果として報われないでいる人たちは、がんばりが足りないやつらなのだ」と、窮地にある人々をますます追い込んでしまう言説です。がんばりたくてもがんばれない人もいます。いくらがんばっても負の偶然の作用によって上手くいかないこともあります。誰にでも起こりうるそうした可能性を無視し、「報われないでいる人たち」に対して「がんばろうとせず他人に頼ってばかりのズルい怠け者」であるかのように印象操作をして人びとを分断するやり口に対しては、私は断固としてノーと言いたい。

確かに、誰かの成功の裏には壮絶な努力や苦悩があったかもしれない。しかし、それが「上手くやれている」原因のすべてではない。そして、その努力や苦悩は成功した人にだけあったものでもない。「上手くやれないでいる人」も、「上手くやれている人」以上に努力を重ねてきたのかもしれない。一人ひとりの過去にあった行動や出来事のすべての因果関係を洗いざらい引っ張り出して比較するようなことなど、出来る訳がありません。


「上手くやれている」ことの背景にも「やれないでいる」ことの背景にも、偶然の要素が複雑に絡んでいる。だから私たちは、誰かのしてきた努力について、あれこれと都合のいいように解釈し評価してマジョリティにとって心地よい言説を弄ぶのではなく、まさにたった今この時、生きづらさに苦しむ人びとに手を差し伸べるための議論を、対話を、尽くさねばならならない。少なくとも私は、そうしたい。

もちろん、私は努力の価値を否定しませんし、運不運が人生のすべてだなんて思ってもいません。「上手くやれている」ことの原因も、「やれないでいる」ことの原因も、実に複雑であり、その複雑さの前に、私たちは謙虚でいなければならないと考えているのです。がんばりだとか努力とか、そんな耳障りのよい言葉に誤魔化され、それを道具に自分を正当化したり誰かと比較したり安易に他者を糾弾したりする態度を、私は支持しません。

今まさに「報われないでいる人たち」にどう連帯するか。その自分なりの方法を、私はこれからも模索していく。


※2021/11/01:改題しました


書くこと。生きること。:Hiromi's Blog

書くこと。学び、考えること。難病ALSに罹患し、世界や自分のあり様を疑う戦慄の時間。生きた証として書いていきます。 satohiromi.amebaownd.com/