父のこと

私の父は昭和15年の秋、横浜・本牧に生まれた。祖父母らにとっての初めての子だった。改製原戸籍を見ると、なぜか父は本牧生まれではなく、祖父の実家のある東京市牛込区(現・新宿区)の住所にて出生ということになっている。ちなみに、父の三つ違いの妹である叔母は本牧生まれとの記載なのだが、兄妹でなぜそのようなことになっているのか今となっては詳しい事情を知る人はいない。

父の父、である私の祖父は、大正2年、東京市牛込区で生まれた。新潟県古志郡栃尾町(現・長岡市)出身の祖母とどのようにして出会ったのかはわからないが、恋愛結婚であったらしい。祖父は大学卒業後、横浜で絹を扱う貿易関係の仕事に就き、祖母と結婚後は本牧に家を持った。二人はまもなく長男、長女を授かったが、戦況の悪化著しい昭和19年6月、祖父は千葉県佐倉部隊へ入隊。翌7月の初めに従軍先の父島近海で戦死した。32歳だった。残された祖母らは翌20年5月の、いわゆる横浜大空襲で焼け出され、祖母はまだ幼い二人の子を連れて栃尾の実家へ身を寄せたという。祖父の戦死公報は昭和20年8月13日、終戦の二日前に発行されている。


父には、横浜のころの記憶はない。父の記憶は、疎開先から始まる。

私の父は、栃尾の祖母の実家から牛込の曾祖父の元に預けられた。いや、曾祖父の「長男の長男」として、戸籍のある「家」に戻された、という方がしっくりくるかもしれない。父はこのとき、三つ違いの叔母とも離れ離れになったはずなのだが、幼かった父の記憶は曖昧で、自分に妹がいたことをずっと後になってから知ることになる。

父は、曾祖父、曾祖母、大叔母たちと共に、千葉県九十九里の親戚を頼って疎開した。正確には、父は栃尾から九十九里の疎開先へ預けられ、そのとき曾祖父らはすでにそこへ来ていた。曾祖父らは農家をしていた親戚から住む家を借り、引き換えに農作業の手伝いをしていた。

わんぱく盛りの父は田舎暮らしにもよく馴染んだ。早朝、近所の子らと連れ立って、片貝海岸へ地曳網漁を手伝いに行った。褒美として漁師たちから小魚や蛤などをもらうのが嬉しかった。飼っていた鶏の餌やりや卵集めも、子どもだった父の仕事だった。

昭和20年8月。日本は戦争に負け、しばらくすると曾祖父は、曾祖母や大叔母、父らを九十九里に残し牛込に帰って行った。空襲で焼けた家の跡にバラックを建てた曾祖父は、こんな句を残している。

「おらが家は屋根より月の出入りする」

父は九十九里の海風を浴びながらすくすくと育っていった。


 戦後の食糧難の時代。父は、小さな体に重たいリュックをズシリと背負い、曾祖母と共に、米や野菜などの食料を牛込の曾祖父の元へと繰り返し届けた。疎開先の家から最寄り駅までの長い道のりを歩き、九十九里鐡道(現在は廃線)で東金へ。東金で東金線に乗車、大網駅で房総東線に乗り換えて、千葉駅に着く。さらにここで総武本線に乗り継ぎ、終点の両国を目指した。千葉駅までは電車ではなく、蒸気機関車だった。終点の両国で総武線に乗り換えると、曾祖父の待つ牛込を目指した。

この長い長い旅で、父はすっかり鉄道好きになった。書いているだけでうんざりするような煩雑な行程だが、子どもの頃の父には、この曾祖母との旅が面白かった。時刻表もあってないようなもの、加えて当時の木造客車は買い出し客ですし詰めだったであろう。そんな列車の旅でも父には楽しかったようだ。実際、こうして詳しく書けているのも、この旅に関する父の記憶が鮮明な故である。大好きなおばあちゃんとの旅、おじいちゃんに食べ物を届ける旅。嬉しい時間であった。


昭和22年。学校教育法が制定され、小中6:3制、9年間が義務教育となったこの年、父は小学校に入学した。小学3年生までを九十九里の自然の中でのびのびと過ごした父は、昭和25年3月、東京・牛込の家に移り、新宿区立市谷小学校に4年生として転校した。九十九里から新宿へ。草履に肩掛けカバンで登校した父は、級友たちがみなきれいな格好をしているのに驚き、恥ずかしくなったそうだ。1クラス60人。1学年は5,6クラスあった。


曾祖父は茶道華道に加え、書も教えていた。礼儀に煩く、父は学校から帰宅するとまず大勢のお弟子さんたちの前で正座をして手をつき、「ただいま帰りました」と大きな声で挨拶せねば叱られた。父はこれがとても嫌だったそうだ。曾祖父は酒飲みで、父はよく一升瓶を手に焼酎を買いに行かされた。酒屋はちゃんと心得ていて、黙っていても曾祖父の好む焼酎を持たせてくれた。近所の和菓子屋へはお茶の菓子を、向かいの肉屋へは夕飯のおかずのコロッケをよく買いに走った。

夏には近所の白銀公園で野外映画会があった。木の枝に大きな白い布を吊るし、そこに西部劇が映写された。露店も出て、ちょっとした祭りのようだった。風が吹くと揺れて歪んでしまうスクリーンだったが、大人も子どもも夢中だった。


九十九里から牛込に移った年の、ある日。曾祖父の家に、小さな女の子を連れた女の人が訪ねてきた。叔母の手を引いた、祖母だった。父はこのとき、自分に妹がいることを初めて知った。祖母は祖父の出征後に横浜で空襲に遭い、二人の子を連れて新潟・栃尾の実家へ戻ったが、その後縁談が持ち上がり、まだ幼かった叔母を連れて再婚した。二人の子を連れて後妻に収まることは難しかったのであろう、長男である父は牛込の曾祖父の元へ引き取られた。再婚先にはすでに三人の子がいたが、末っ子の長女はまだ幼くて、女親が必要だったのだろうと父は言う。叔母もこのときまで、自分に兄がいることを知らなかった。祖母は新しい家族と堺村(現・町田市)に暮らしていた。祖母は新しい夫に気を遣ったのであろう、挨拶も早々に、叔母の小さな手を握り帰って行った。


それから父は、一人で祖母に会いに行くようになった。曾祖父に内緒で、曾祖母が電車賃をくれた。最寄りの飯田橋駅から、祖母の嫁ぎ先に近い八王子まで。小学4年生の父は母親に会うため、一人、車上の人となった。先頭車両に乗り込み、運転士の席の後ろから進行方向を眺めるのが楽しみだった。祖母とは、八王子駅から南西に歩いたところにある富士森公園で会うことにしていた。公園には球場があり、春には桜が見事だった。祖母はいつも、父のために弁当を作ってきてくれた。祖母に会えるのは年に2、3回。それも、祖母がこっそり家を空けられる日中の3、4時間程度。公園で落ち合い、実際に会って話せたのは一時間ほどだった。あっという間の時間。「連れ子のいる身で再婚して食べさせてもらっていたのだから、気を遣っていたのだろう」と父は振り返る。父に会うたび祖母は、涙を流していた。

「最後のころは、おやじさん、いいからうちに来いと言ってくれたよ」。祖母の元を訪ねると、再婚相手は喜んで父を迎えてくれた。菊の栽培の腕があり、釣りと酒の好きな人だった。早くに亡くした先妻との間に三人の子があったが、祖母の連れ子であった叔母にも優しかった。「妹を高校まで出してくれたんだから、おやじさんには感謝しなくちゃいけない」。父は言った。


幼い父は曾祖母と共に、疎開先の九十九里から曾祖父の待つ牛込まで、すし詰めの買い出し列車を乗り継いだ。リュックいっぱいの食料を届けるために。そして小学4年生の父は、飯田橋から八王子まで一人、中央本線の客となった。曾祖母がこっそりくれた電車賃を握りしめ、別れて暮らしている自分の母親に会うために。

父は今も鉄道が趣味で、廃線になった線路跡などを調べては訪ねている。



書くこと。生きること。:Hiromi's Blog

書くこと。学び、考えること。難病ALSに罹患し、世界や自分のあり様を疑う戦慄の時間。生きた証として書いていきます。 satohiromi.amebaownd.com/