永遠に生きるかのように、学ぶ。
私はよく、人に言われます。
「なんのためにそんなことをやってるの?」と。
一番よく尋ねられるのは、私が学ぶことについてです。
(え?なんで?)
(今さら?)
(資格でも取るの?)
(意味なくない?)
これまで幾度言われたことでしょう。
答えは簡単。
「やりたいから。」
これから映画を観に行くという人に、なんで行くの?とは尋ねないでしょう。釣りが、スノーボードが、バイクが、お菓子作りが趣味という人に、なんのためにそんなことやるの?とは聞かないでしょう。そんなことしても意味ないじゃん、とは決して言わないと思うのです。当然、やりたいからやるのです。楽しいから、興味があるから、気分がいいから、あるいは何となく気が向いたから、やるのです。
それがなぜ勉強となると、なんのためにやるのか?と不思議がられてしまうのでしょう。
“あなたはどうせもうすぐ死んじゃうのに”、勉強なんて意味がない、とでも言いたいのでしょうか?
では何のために学ぶと言えば、納得してもらえるのでしょう?
そもそも人はどうして、学ぼうとするのでしょう?
“あなたはどうせもうすぐ死んじゃうのに”、本を読んでも意味がない?
“あなたはどうせもうすぐ死んじゃうのに”、仕事を頑張っても意味がない?
“あなたはどうせもうすぐ死んじゃうのに”、夢を語っても意味がない?
わかりやすい目的に対し一直線に向けた行動や、「割に合う」と計算出来る行為ばかりが合理的で正しいと信じられてしまうのは怖いことだと思うのです。
一見そうでないと感じられるもの、量だとか強さだとか採算だとか生産性だとか目的合理性だとかの物差しでは測りづらいものの、排除に繋がるからです。ある個人や集団にとって「割に合わない」と見なされるものは、すべからく無価値で無意味だという一方的な決めつけに繋がるからです。
私は学びたいから学びます。読みたいから本を読みます。あなたにとってたとえそれが無意味で馬鹿げたことに思えても。たとえ私がもういくらも生きられない身体だとしても。
なぜならそれが私の幸せであり、私の生き方だからです。
0コメント