無題20220611
また、だ。
試しに、そう、この半年間の新聞記事をこんなキーワードで検索する。
「障害者 虐待」
「障害者 暴行」
検索結果には、気の遠くなるような件数、気の遠くなるような内容の記事が並ぶ。
圧倒的な権利侵害。立場の弱い者たちへ向かう、筆舌に尽くしがたい暴力。
被害者一人ひとりの痛みを、苦しみをかなしみを想像して、胸が苦しくなる。どうして、と怒りで顔が歪む。こんなことが赦されていいはずがない。
「二度と繰り返さぬよう…」
管理する自治体の長による「遺憾の意」が示されて、“ニュース”に幕が引かれる。
何より頭にくるのは、こうした報道がさして大きな扱いにもならない、さほど話題にならないということだ。「二度と繰り返されぬよう」。そのための真剣な世論が、本気の議論が起こらないことだ。
ほんとうの怒り、が無いのだろう。
結局、どこかで赦してしまっているのだろう。
「しょうがない」「そんなこともあろう」と。
決して声にできない、心の奥の奥で。
遠く海の向こうで起きていると伝えられる国家ぐるみの人権侵害に対して「けしからん」と大声を張り上げる“正義感”は何処へ行った?
国家ぐるみではなく、組織ぐるみなら赦されるのか?
赦せない悪と、赦せる悪があるとでもいうのか?
私たち一人ひとりの心の内にも潜んでいるんじゃないか?
同じ何かが。
「自分だけは“いい人”であるはずだ」
そう思いたい気持ちは誰にでも強くある。私だって同じだ。
しかし、自分だけを安全地帯に避難させ、すべてを他人事にしてしまえる自らの狡猾さと身勝手さに正面から向き合わなければ、「二度と繰り返さぬ」という言葉はいつまでも空疎な定型文のままだろう。
決して赦してはならないことがある。
私たちはどんな社会で生きたいのか?
ほんとうの怒りを、抱けるか。
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