革命尚未成功,同志仍须努力
旅行先の台北から帰国しました。今回で三度目の訪台です。始めて訪れたのは20年くらい前。二度目は15年ほど前だったでしょうか。15年前の私はまだ病気を発症しておらず毎週末のように趣味の登山を楽しむ程に元気で、杖や車椅子とは無縁な日常生活を送っていました。私は今回、病気を患い歩くことが出来なくなって、電動車椅子を足として台北を訪れることになりました。旅の主な目的は年末年始の台北の街を車椅子でブラブラと散策すること。そして始めて台北を訪れた折、自分への土産として国父記念館の土産物屋で購入しその後誤って割ってしまったマグカップを買い直すことでした。
(国父記念館にて。目当てのマグカップは見当たらず、同じデザインの栞を購入。それにしても日本円が安く使い出がない…)
今回の旅行中、街歩きをしながらまず驚いたのが街の中のバリアフリー環境でした。台北の街がこの15年ほどの間に目覚ましいスピードでバリアフリー化したのかとも思いましたが、前回車椅子を使わずに自分の足で歩き訪れた私の目にはそれらが全く見えていなかっただけなのかも知れません。街の中のちょっとした段差もスロープ状の傾斜を作ってあることが多く、見た目に整ったものではありませんでしたがとても実用的でした。
滞在中、私が最も感心したのがMRT(地下鉄・新交通システム)でした。毎日のようにMRTを使って観光に出掛けたのですが、その利用し易さには感動を覚えました。
少なくとも私が利用したいくつかのMRTの駅はすべてホームと車両床面との段差が無く隙間も比較的狭いため、周りで見かけた車椅子の方々も私自身も、駅員さんのサポート無しに問題なく一人で乗り降りをしていました。6両編成の電車の先頭と最後尾の車両には必ず車椅子スペースがあり、私以外にも車椅子の人たちが乗車しているのをよく見かけました(車椅子の当事者一人で乗車しているのを見かけることがほとんどでした)。
(ホーム上に設置してあるのは視覚障害者の為のピンク色の待合席。ホームと車両には段差が無く隙間も狭いのがわかる)
駅構内の案内表示はとても大きく統一されていて車椅子の目線からも視認性が良いため、旅行者の私にとっても非常にわかりやすいものでした。エレベーターを使っての移動(「行動不便」な人の移動)に必要な案内が、いちいち探さなくても気付くことの出来る位置に表示されており、上下階への移動手段がエレベーターに絞られてしまう車椅子の私には大変助かりました(東京の鉄道で何度かある経験ですが、エレベーターを探して人混みの中をホームの端まで苦労してやっと移動したのに実は反対側の端だった、とか、改札を出て駅出口へのエレベーターをウロウロ探し回り、やっとそれが無いことに気付いて駅員さんに頭を下げ改札を入り直し別方面の改札を再び出直させてもらった、というような苦労はありませんでした。乗り換えも一目瞭然で時間や体力の無駄もなく、何より要らない不安を抱かずに済んだのは喜ばしいことでした)。
(MRT駅構内のエレベーター:上/下とも)
私の乗り降りしたMRTの駅のエレベーターはすべて写真のようにデザインされていました。私は一目見て、このエレベーターは基本的に「行動不便」の人の為のものとして設置されている、と自然に理解しました。色や言葉やマークといった全体のデザインから、旅行者の私がそういうメッセージを受け止めたのです。見にくい位置に申し訳程度に貼ってある「お体の不自由な方優先」という小さな掲示物の文字にわざわざ目をやらずとも(ほとんどの人は読まないでしょう)、エレベーターそのもののデザインから視覚的、直感的にメッセージが理解されることで無理なく利用者の行動が誘導されるようになっていると感じました。空間そのものがいつの間にか人の行動を促しているということなのだと思います。
(出口エレベーターのサイン。イラストのエレベーターに乗っている人たちに注目)
エレベーターを待つ人の列に対しても足元に下の写真のような表示があり、優先される人と一般の人の列を分けるものになっていました。これは本当に羨ましいなぁ。
日本の鉄道の駅でよく目にするように、ホームに一台しかないエレベーターに電車を降りた元気な健常者が殺到し出遅れてしまった車椅子の人の存在が無視され後回しにされたり、杖や車椅子の人が押しのけられて元気な人だけが我先にエレベーターに乗り込んでしまったりなどという残念な光景は一度も見かけませんでした(短い滞在でもあり、台北のラッシュアワー時間帯を私が経験していないからかも知れません)。私は滞在期間中、毎日のようにMRTの駅のエレベーターを利用しましたが、私が乗り易いようにと自ら進んでエレベーターを降りてくれた人や先を譲ってくれた人が老若男女問わず何人かおられました。私の住む東京ではそうしたことは残念ながらほとんど期待出来ません(私の経験上、です)。駅などに設置された標識や街全体のデザインによってここに暮らす人たちが無意識のうちに教育されているのだ、という考え方もあると思いますが、そのような効果があったのだとすれば、標識を掲出したり空間のデザインをしたりする人たちの本気度が違うということなのだと思います。上司からの指示があったので仕方なく小さな貼り紙を言い訳程度に掲示しておこうという程度の消極的な姿勢と、本気で人びとの行動を変えようとする思いの強さでは比較になりません。
MRTの駅のエレベーターでさまざまな方がさり気ない気配りをしてくださるたびに、私は、異国からの車椅子旅行者である自分がこの街で当然のように受け入れられているような安心感を覚えました。病気で障害のある車椅子の私が、当たり前の権利として外へ出て観光し自由に移動してよいのだということや、大袈裟かもしれませんが、台北という街に包摂されここに生きているのだということが自然に信じられました。気のせいか、街の中にも車椅子の人を多く見かけた気がしました(私の電動車椅子に興味を持った様子で話しかけてくださった車椅子のおじさま。台湾語がわからずごめんなさい。どうぞお元気で)。
駅やデパートなどで、何台やり過ごしても人でいっぱいのエレベーターにいつまで経っても乗れず、何とも惨めでかなしい思いをしたという経験を持つ車椅子ユーザーはおそらく私だけではないでしょう。そんなことに直面する度に私は、ここは体の動かないオマエのような者の来るところではない、この社会にオマエのような者の居場所は無いという社会全体が発するメッセージをグサリグサリと動かない体に受け止めてきました。満員のエレベーターの扉が開き、そこに乗っている大勢の人たちから一人ポツンと車椅子でエレベーターを待つ自分へ向けられるたくさんの目。好奇心と優越感と後ろめたさの混じったそれらの目の持ち主たちは、その健常の人でいっぱいのエレベーターに車椅子の私が乗れないことに疑問を持ちません。エスカレーターや階段といった他の選択肢を持つことが出来ず、もう何分も自分が乗れるエレベーターを待ちながら途方に暮れているということに気付くことはないのです。私はこんな惨めで辛い思いは二度としたくないという思いに打ちひしがれながら、自分がこの社会に受け入れられていないという現実を深い痛みと共に感じます。
なにも私は、エレベーターを常に自分だけで占有したいとか、電車やバスを一分一秒も待たずに貸切車両で乗せて欲しいとか無茶苦茶を言っているのではありません。すべての人に移動の自由が保障されているのだから、私も障害の無い人たちと同じくらい自由にスムーズに移動したいと言っているだけです。合理的配慮の範囲内で同じくらい、です。障害者はどうせ急ぐ用事など無いだろうから待たせておいても問題ないだろうとか、障害者は少数だし手間がかかるから後回しにされて当たり前だとか、障害者なんだから不自由でも我慢して贅沢は言うなとか、そんな風な偏見や思い込みを都合よく利用して、日常の風景から徐々に私たちを取り除こう、いないことにしようとする力を感じ、私は危機感を覚えます。
こんなことを書くと、昨今は匿名の人たちからネット上で酷く叩かれるそうです。階段やエスカレーターを使うことが出来ず、別の階への移動手段がエレベーターしか無い障害当事者の「健常者と同様にスムーズに別階へ移動したい」というだけのささやかな願いが、わがままだとか贅沢だとかいう差別的でよくわからない理由で、いい歳をした匿名の大人たちから攻撃されるというのです。私にはそうした風潮が、既存の福祉制度を利用する人に対する異常なまでの厳しい視線と重なって感じられてなりません。人らしく生きたいという当然の願望や万人に認められているはずの人としての確かな権利すらも、自己責任だとかワガママだとか贅沢だとか、皆んな我慢をしているのだから辛抱しろとかズルをする人がいるから利用を厳しく制限しろというような理屈で、主張させず押し黙らせねじ伏せようとする不合理な力です。自らの権利を主張する人、社会のあり方に疑問を抱く少数者(中でも特に女性)を感情的に叩き黙らせようとする顔の無い力の存在を感じ、私は強い危機感を覚えます。
少しでも現状に意義を唱え権利を主張し意見する者を、同じ仲間であり権利主体であるはずの者同士で監視し合い、粗探しをして攻撃し合う。大きな力に対してはすぐに平伏し迎合するくせに隣にいる仲間たちの一挙手一投足には目を光らせほんの些細なことでも異論や逸脱を許さない。どんなに苦しくても助けを呼ぶ声さえ出せないほどに萎縮した、がんじがらめの私たちのこの相互監視社会は、静かに沈黙したまま自粛し合い牽制し合い攻撃し合って自爆していくのでしょうか。
小さく萎んでゆくパイを奪い合って「役立たず」を探し出し、吊し上げ叩いて排斥しようとする社会に未来はない。多様な人びとが共に希望をもって生きられる社会を目指して知恵を出し合い、自ら変わる勇気と、そんな社会を変える勇気を持つべきだろう。
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