ご家族は大変ですね
何から何までやってあげて
本当に偉いと思いますよ
身の回りの事、全部でしょう?
よくやってあげて、本当にご苦労様
毎日じゃ疲れるでしょう
私だったら出来ないですよ
――あなた、感謝しなきゃダメよ!
私は家族の傍で、上述のような言葉を幾度も聞いてきた。発言者は、重病人を世話する家族の日々に思いを寄せ、労い、感心する。大変でしょう。疲れるでしょう。困難を乗り越えようとひたむきに頑張る家族想いのあなたは素晴らしいーー
発言者たちはひとしきり家族を褒めたたえると突然私の方に振り向き、半音下げた調子で私に指示をする。家族に感謝せよ、と。え?既に毎日めちゃくちゃ感謝してるし、大きなお世話なんですけど。大体あなたどんな立場ですか?などと私は絶対に本音を口にしない。私には、微笑み頷いて、この瞬間が早く終わらないかと心の中で祈ることしか出来ない。
発言者たちは、おそらくいくつかのことに気付いていない。自分の介護のせいで大切な家族が苦労をしているという話を、私がどんな気持ちで聞いているかということや、私は「自分でやりたくないことを嬉々として人にやらせている」のではなく「自分でやりたいのは山々だが体が動かずそれが叶わないので、無念であるし申し訳なさもあるのだが人に頼んで何とかやってもらっている」のだということ。また、発言者は無意識のうちに私ではなく家族(介護する人)の立場に自らを投影しており、間違っても私のような難病患者や障害者の立場に自らを重ねてその気持ちを想像することはないし、自分自身が同様の身体状況になるかもしれないといった可能性について考えることもないといったこと(これは障害者や高齢者への虐待といった事件報道への一般的な反応を見ていても感じられる)、そして、発言者のこの言葉は重い問題を包含しているといったことだ。
私の大切な人らにとって、私の存在が手間や面倒や負荷や疲労や苦しみの発生源となっているという指摘は、私にとって、自分は生きて存在すべきではないというこの世からの退場宣告に等しい。第三者からやいのやいのと言われるまでもなく、私は私の大事な人たちを苦しめたくはないし、そのことについて考えない日はない。しかし私は、それでも生きていたいという思いを簡単に消すことは出来ない。介護に追われる家族の葛藤も、きっと大変なものがあるだろう。
〈私―私の身近な人たち〉という構図をもう少し俯瞰し、私を中心にした「大変さ」の同心円の半径をグングンと伸ばしてみると、それは家族、友人、親戚、地域コミュニティをみるみる飲み込んで社会へと地続きに広がってゆく。「(私のような)難病患者、障害者を生かすための社会保障費はますます膨れ上がり、額に汗して真面目に働く現役世代の大きな負担となって、果ては国家財政まで破綻させかねない。社会にとって害悪でしかない“生きていても無駄な命““生産性のない命”はさっさと選別し、自己責任の大原則の下、福祉も医療も切り捨てて、われわれの社会から退場してもらった方がいい」――ネットをほんの少し検索すればいくらでも触れることができるこうした種類の言説は、時に“タブーに挑戦している”などという便利な枕詞付きで拡散され、エキセントリックな物言いや陳腐な演出と共にあっという間に広く受け入れられてしまう。重い障害の人たちを「不幸しか生まない存在」と決めつけ命の選別の果てに次々とかけがえのない大切な命を傷つけ奪っていった凶悪事件に遡るまでもなく、こうした考えはますますその支持者を増やし高齢者までを巻き込んで集団自決などというとんでもない言葉を流行らせてしまった。
未来永劫、自分だけは病むことも障害のある体になることも絶対にあり得ず、どれだけ歳をっとっても健康体で、あらゆる面で誰の世話にもならずに自立して生きていけるはず、という無意識の思い込みは、1等の宝くじに当選する人生をベースに将来設計をするようなものだ。私はその屈託のなさに驚くと同時に、その無邪気さが、躊躇いのなさが見えなくさせてしまうものの余りに大きく重大であることを思い、どんより暗い気持ちになる。どこまでも“自分”は介護する側、選別する側、殺す側であり続け、介護される側、選別される側、殺される側ではあり得ないのだろう。
私が生きていると、私の周りの人たちは大変だ。特に一番身近な人たち、家族にとってはこれからも休み無しの介護が続くだろう。しかしそこに生まれる喜びもある。笑って過ごせる日常がある。病気を患い、思うように動けない体になったからこそ気づけたこと、感じ考えられたこと、初めて経験できたことがある。患者であるからこそ出会えた人たちが私には大勢いる。そして以前とまったく変わらない時間もある。それらは家族にとっても同じだろう。私以外の人のことは、私の頭でどれだけ想像してみても到底わかるものではないけれど、わかりたくてもわからないことがあるのだという当たり前の謙虚さを、それでもわかろうとし続ける愚直さを、私は手放さずにいたい。
今日も昼ご飯をつくってくれて有難う。テレビを見ながら、一緒に食べよう。
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