学べば、学べ。

「リスキリング」という耳慣れない言葉があっという間に当たり前の用語となって、ますます窮屈な世の中になってきたなと思っていたら、政府の経済対策について報じるテレビニュースの中で、この言葉に「リスキリング(学び直し)」と続いて表記がされるようになっていて驚いた。少し以前のニュース解説か何かで目にして以来ずっと気になっていて、今もそのモヤモヤは続く。
リスキリングは「学び直し」とイコールではない。「職業再訓練」に近いニュアンスのものだと思うが、「学び」という言葉が注釈もつけられないままにイコールで記されてしまうことに、私は今も戸惑いを隠せない。リスキリングが、よき労働者、よき人材であるために必須とされてしまうこで、私たちの社会から取り残されてゆく人びとがますます増えてしまうのではないかという懸念と、そもそも「学び」というものへの理解、共通認識が変質してしまわないかという危機感を私は抱いている。確か平成の初期頃には多くの労働者にとって当たり前の立場であったはずの正社員という雇用形態すらも、今では激しい競争の末に勝ち取らねばならないものとなり、自己責任論の吹き荒ぶ中で今ではそのことに疑問すら持たれなくなってしまった。「上手くやれていないのは、お前の努力が足りないからだ」と、自分が上手くやれていることの偶然性を棚に上げて、人を孤立させ追い込むシステムの加速化である。ただ生きてゆくだけの日常を継続することにも、みるみるハードルが上げられてゆく私たちの社会。
私は、雇用されるための技術や知識を身につけることや、昇進や昇給のため新しいスキルを習得することが、いつの間にか「学び」という言葉に差し代えられてゆくことへの懸念を抱いている。大学の就職予備校化が言われて久しいが、こんな言い換えが当然のものとなってしまえば、ますます子どもたちは学ぶことそれ自体を、よき“人材”となるための職業訓練だと刷り込まれてしまいやしないか。
人は“人材”などではない。どこまでも血の通った「人」である。一人ひとりが幸福を追求し、どこまでもその人らしく生き続けてよい生身の存在である。「学び」はそのために必要な営みであって、決して誰かや何かの利益のための優秀な人材となるための訓練などと混同されてよいようなものではない。

私自身、数年前に大学へ編入したとき、友人に「資格でも取るの?」と尋ねられ戸惑った経験がある。いい年齢の大人にとって、それ以外の「学び」があり得ないというのは考えてみれば恐ろしい。18や22や、そんな年頃までに身に付けた教養のままに、残り半世紀以上を生きようとする試みの方が、私にとっては挑戦的すぎる。いつの間にか過ぎた月日が残していった、ひとりよがりの経験則やご都合主義の自己正当化は大事な判断を狂わせてしまいそうだ。戦争、気候変動、AI技術の進歩。今この瞬間においてさえも、正しく捉え、考え、動かねばならないことはいくらでもあるだろう。そしてそれらは、いのちや尊厳の問題として遙か遠くまで地続きであり、誰一人としてその当事者性から逃れられる者はいない。
私たちはどんな社会に生きたいのか。どんな世界を創るのか。その問いには、歴史や古典や自然科学や、あらゆる知や経験や多様性を総動員して皆で向き合い、考え、答えてゆくものなのだろうと思う。
学ぶことと、よい「人材」だと他者から評価されるための訓練を受けることはイコールではない。私たち一人ひとりが大事なことを間違えないために、互いを、そして自分を大切にしながらどこまでも生き続けるために、学びはあるのだと私は思っている。
そして重要なのは、誰でも、いつからでも学べるということなのだろう。18や22や、そんな若い一瞬に比較された単一の指標のみでその可能性をどうこうされるほど、学びは柔なものではない。

数年前、編入学した大学を無事卒業となり、卒業式の後に催された学生同士の集まりに参加したときのこと。同じ卒業生に、昭和6年生まれという女性がいた。英語を学びたかった中学生の時期が太平洋戦争と重なり、戦後の混乱もあってその思いは成就せぬままに年月が過ぎて、ようやく大学での学びを得て無事にすべての単位を修め、晴れて卒業式を迎えたという。
あるいは幼少の頃、広島に投下された原爆で入市被曝し、戦後、家族を養わねばならぬために学校での学びの機会を奪われた女性。時代に翻弄され続けた彼女は、それでも自分がもっと努力して教育を身に付けておけば、ヒロシマのヒバクシャとして、今起きている戦争をさせないための言葉を持ち得たかもしれないと、後悔を混えて言う。

「え、それ知っていて役に立ちますか?」という質問が、彼女たちが欲した学びの前に如何に空疎なものであるか。
繰り返し書こう。私たち一人ひとりが大事なことを間違えないために、互いを、そして自分を大切にしながらどこまでもそれぞれの幸せを追って生き続けるために、私たちは学ぶのだろう。そして、そんな学びという行為を機会を、いつの間にか私たちから掠め取られてしまわないように、私は学び続けよう。


書くこと。生きること。:Hiromi's Blog

書くこと。学び、考えること。難病ALSに罹患し、世界や自分のあり様を疑う戦慄の時間。生きた証として書いていきます。 satohiromi.amebaownd.com/