「偶然」について考える
私はALS(筋萎縮性側索硬化症)という進行性の神経難病の当事者である。この病の発症確率は1年間に100,000分の1人と言われている。科学的に可能性が全く無いというわけではないのだから、私がその患者当事者となることも当然ありえないわけではない。しかし、その確率の問題と、その10万分の1人がなぜ「この私」であるのか、という受け入れ難さの問題は全く別のものである。そう考えたとき、重度障害当事者であったり、思わぬ事件事故の被害者であったり、紛争の止まない国や地域に生まれたりといった、当人にとっておそらく全く望まない大きな困難の中に「たまたま」いる人たちは、一体それをどう受け入れ、また受け入れられずにいるのだろうか、という問いの前にも、同時に私は立つことになった。
一方で、戦後のこの国に生まれ、高等教育を受けさせてもらえる家庭に育ち、とりあえず毎日お腹をほぼ空かせることがなく暮らしていける、といったようなことの「たまたま」を、全くのゼロカウントにして、そこに意識を持つことのない人々に対し、以前より私はずっと苛立ちを感じていた。何かにつけいちいち感謝をしろといった類の説教臭いそれではなく、その「たまたま」の前提の上で成し得た成功を、あまりにもそこに自覚のないままに、丸ごと自分の手柄にしようとする狡さに、うんざりしていたのである。頑張ったから自分は成功した、という言いようは、成功しなかったのは頑張らなかったからだ、という理屈と表裏一体である。いくら真面目に頑張っても、たまたま成功に結びつかない人もいれば、そもそも、頑張りたくても頑張れない状況にたまたま置かれてしまった人もいるではないか。「たまたま」への意識や謙虚さがあまりにも無さすぎるが故に、現在私の暮らしているこの国は、あまりにも人に対して厳しい社会になってしまった気がしてならない。
ハイデガーの実存思想は、固有の存在としての自分自身を、理由なくそこに投げ入れられたものとして捉えるのだという。被投的存在である私は、それとして私自身を引き受け、そしてその地点の先に、いつか必ず来る自分の死の瞬間を意識する(ALSの患者は発症から自発呼吸が出来なくなるまでの“余命”平均約2年から5年と言われる。気管切開をし人工呼吸器を装着して生きてゆくか、そのまま生きるのを諦めてしまうか、自分で選択せねばならない。私は症状を自覚してから既に8年が過ぎている)。
お前は投げ入れられ、いつか必ず死んでいくのだと言われて、私はやっと、初めて自分が自分として在るこの地点を足の裏で捉えた気がした。避けられず自分の眼前に示された、幅の狭い道筋をこの目に眺めてみる。出来ないことの多すぎる私にとって、それは糸のように細く、そしておそらくごく短いものであるはずだ。偶然に「この私」であった私は、自分の立つこの世界の何たるかを強烈に知りたいと思っている。そして、目の前の細く脆く短い糸の上にあってもなお掴むことのできるもの、もしかしたら、そこでしか掴むことのできないものもあるかもしれないと、今思えている。
「運命」という考え方は、これまで、どこかご都合主義的なにおいがして警戒していたのだけれど、今の私には思いがけず、さほど居心地の悪くないものであった。ここから死までの時間に何をするのか(しないのか)を、無理やりの納得や諦めではなくて、希望的に検討してゆきたいと思う。
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