私を「理解」してくれる人びとについて

「みんないい人たちばかりだから、理解してくれるはずだよ」

「ああいう人たちだからさ、きっとわかってくれるよ」


 何度も何度も、聞いてきた言葉。

 車椅子の私が会合に出たり知人たちと会ったりせねばならないようなときに、ちょっとした配慮などを考えてくれようとする知人などが、周りの他の人たちを指して、私に向かって口にする言葉だ。

 こうした言葉を聞くたびに湧き上がってくる、強い苛立ち。

 しかし、私は喉まで出かかった言葉をグッと飲み込み、大概は夜ベッドの中で一人思い出したりなんかして、ああもう何もかも嫌だ、などとグッタリする。自分は善いことを言っていると寸毫も疑わないその傲慢さが、私に大事なことを諦めさせる。

 なぜこうも私ばかりが、毎度毎度、「わかって」もらわなくてはならないのか。そもそも、何を「わかって」もらえというのだろうか。「わかって」くれる「いい人たち」というのはきっと、少々迷惑であっても気の毒な<弱者>への理解と慈悲深さから広い心で私を受け入れてくれる、やさしさと寛容さと思いやりに溢れた立派な人たちであり、一方の私といえば、そんな周囲に対しいちいち理解や配慮を乞い恩恵的に受け入れてもらわなければならないほどに迷惑で負担ばかりかけている、弱くカワイソウで劣った存在なのだろう。

 なにも車椅子の私だけを特別に優遇してほしいとか、他の皆よりも私だけよい待遇を求めているとかいう訳ではない。あくまで皆と同じことをするためにどうしても最低限必要な、身体状況への理解や配慮といった類のことを求めているだけだ。しかもほとんどの場合、私が車椅子でそこにいることで通路がほんの少し狭くなるけど宜しくとか、私の席をできれば入り口に近い位置にしてもらいたいのだけれどとか、体力がないから疲れたら休憩のため少し中座するかも、といった程度のことで、場合によっては私が車椅子でそこに参加するというだけのことだったりする。そんな場合でも私は、善意の人たちの恩恵に浴することが出来た幸運に、気の毒でカワイソウな私を受け入れてくれたそのあたたかい心に、感謝感激しなければならない。自分の努力ではどうにもできない身体状況なのだから、同じ権利を有する人間としてされて当然の配慮だ、などという発言は、決してしてはならない。「いい人たち」が、私の何かを「わかってくれる」のだから。何を「わかってくれる」のか、何を「理解してくれる」のか、その内容の一切が語られなくとも、私は「わかってもらわなくてはならない」。私はそんなにも罪深い存在なのだろうか?

 私は思う。床に頭をこすりつけて理解を乞い、受け入れてもらわなくてはならないような場所には参加したくない。人として対等でないというのなら、そんな関係性、私は求めない。そんなにも情けない自分としてしかいられない場所などに、私は存在したくない。そして、悪意が無いからといって、私はその行為を免罪しない。

 私の口を無理やりこじ開け、<憐れな弱者>である「現実」をその口に押し込み、私の顎を持ち無理やり咀嚼させ「わからしめようとする」行為に、私は全身全霊で、抵抗する。

書くこと。生きること。:Hiromi's Blog

書くこと。学び、考えること。難病ALSに罹患し、世界や自分のあり様を疑う戦慄の時間。生きた証として書いていきます。 satohiromi.amebaownd.com/