青空の下で

 もう6、7年ほど前になるだろうか。

 東日本大震災の被災地を初めて訪れる友人たち数名を連れて、とある仮設住宅に知人女性を訪ねたときのこと。当時の仮設住宅での暮らしなど丁寧に話してくださったその女性にお礼を告げて別れようとしたその時、一人の友人が食べかけのせんべいの袋をバッグから取り出し、女性の手に押し付けるように手渡した。

「よかったら食べて、ね」と、感極まった様子の友人。女性は柔和な笑顔で「ありがとうございます」とせんべいを受け取った。

 私はいたたまれなくなって、女性にお礼を伝え頭を下げると、友人を急かすようにその場を離れた。

 なんで食べかけのせんべいなんだろう?何か贈りものをお渡ししたいなら、なぜちゃんと東京から用意してこなかったんだろう?もし何も手元にないなら、そして本当に何か贈りたいなら、何度でも会いにくればいい。初対面の人に食べかけのせんべいを差し上げるなんて、非常に失礼なことだ。もしかしたら友人は「困っている人だから、食べかけのせんべいでも喜ぶだろう」と思ったのではないか?そんな<憐み>も<施し>も、女性はきっと望んではいらっしゃらないだろう。私たちはズカズカと仮設住宅まで押しかけて、言いたくもないだろう「ありがとう」を女性に言わせてしまった。女性はどんな思いで食べかけのせんべいを受け取ったのだろう。

 私はその場で友人に「こんなもの渡すなんて失礼だよ」と言うべきだった。

 私は一体何をしているのか。東京へ帰るまでの数日間、友人たちの賑やかな会話も耳に入らず、私はずっとうわの空でその時のことを思い出していた。食べかけのせんべいという<思いやり>を暴力的に押し付けて、女性に「ありがとう」と言わせてしまった。その「ありがとう」がどのくらい心からのものか、反射的、虚礼的なものか、今となっては私にはわからない。問題の本質はそこではなく、食べかけのせんべいを渡してしまった行為そのものにある。「ありがとう」の言葉は渡した行為を免罪しない。

 「困っている人」「自分より弱い人」に対し何か善いことをしたい、善い人になりたいという衝動そのままに、優越感情と高揚感に勝てず、十分に吟味されることなく、ただただ自分の満足のためになされた行為。「ありがとう」という見返りの言葉だけを期待した行為なのではないか。

 私はいかに中途半端な人間か。

東北の青空と、足元の濃い影と、少し潮の香りのする澄んだ空気と共に思い出す。


書くこと。生きること。:Hiromi's Blog

書くこと。学び、考えること。難病ALSに罹患し、世界や自分のあり様を疑う戦慄の時間。生きた証として書いていきます。 satohiromi.amebaownd.com/