あるALS患者の記録②【2016】
【2016年】
春。近所の整形外科に通うようになり、マッサージや電気治療などを繰り返すがまったく効果はなかった。左足が特に動かしづらく、常に軽度の痺れがあった。数日おきに整形外科のリハビリの部屋に通うのだが、周りは高齢者ばかりで精神的にキツかった。あまりにも症状が改善しないので困り果てた何人目かの医師が、大きな病院の整形外科に宛てて紹介状を書いた。紹介された病院を訪れると、出てきた医師は私の話を聞くなり、これは整形外科ではなくて神経内科だと私に告げた。
私はすぐに最寄り駅近くの神経内科へ掛かり、時間をかけて丁寧に診てもらった結果、知り合いの医師に紹介状を書くから明日にでもその大学病院へ行くようにと言われた。私の足はもうソロソロと歩くことしかできず、電車のホームから車両に乗り込むことすら怖くなっていた。私は、妙な動き方しかできなくなってしまった自分の足を人に見られるのが恥ずかしくて、この頃はいつも長いスカートを着用していた。
季節はもう夏になっていた。紹介された大学病院では「脳神経センター」という所へ案内された。もう長い間、自分は足が悪くなったのだと信じ込んで整形外科に通い続けていたのだが、実は自分が侵されているのは足ではなく脳神経なのかと、待合室の前の大きな表示を見て知った。この時はとても驚いた。
診察の結果、私はすぐに2週間ほどの入院を告げられた。入院中は、針筋電図、神経伝導速度検査、髄液検査、唾液線のレントゲン、筋肉や神経のMRI、涙腺の検査など、生まれて初めての検査が続いた。検査は痛みを伴うものが多かったが、初めての入院生活や珍しい検査への好奇心もあって、大きな不安の中にも新しいことへの興味が少しだけまじり合ったような時間だった。後から聞けば家族はこのときからもうALSを疑っていたようだが、私自身は自分の病気がどういうものか、まだあまりよくわかっていなかった。
様々な検査の結果、私は<シェーグレン症候群>という難病であるとの確定診断を受けた。私は、自己免疫疾患の患者として点滴によるステロイドの大量投与を受け、大きなレジ袋にいっぱいの薬を抱えて退院した。
<シェーグレン症候群>の主な症状は、涙や唾液などが出なくなり、乾いてしまうことだ。涙が出ないことで目は乾き、まぶたが上手く閉じなかったり、目を開けているのも辛くなったりする。唾液が出ないと口が乾きすぎて、口の開閉がスムーズにいかなくなったり、口臭が気になってしまったり、食べ物も飲み込みづらくなってしまうという。日常生活に大きな支障が出てしまう難病なのだが、私にはこれらの症状がまったく見られず、逆に<シェーグレン症候群>には一般的に認められないはずの、足の運動神経障害があった。血液その他の検査結果が、厚労省が定めるいくつかの診断基準にピタリと合致してしまい、私はこのとき<シェーグレン症候群>と診断されたのだった。
とりあえず一つ目の、国による指定難病の患者であると診断されることで、私は、自分が確かに病気であったことを認められて、何年か越しの不安と孤独からある意味、解放された。やっぱり私は病気だった。そして、医療費その他の公的な支援が受けられることになった。薬代だけでも高額になるため、これは本当に助かった。
しかし、<シェーグレン症候群>ではない、何か別の、運動神経障害の原因となる二つ目の病気がまだ隠れているはずということで、私の検査は続いた。この時私は、難病というのは確定診断が出るまでに2年や3年かかることは珍しくないのだと、初めて知った。難病をめぐる様々な制度や支援の仕組みなどについて、少しずつ情報を集め始めた。ステロイドについては減薬が始まった。
同じ年の秋。二度目の入院。2週間の入院中、相変わらず検査は続く。私は仕事の必要から病室にパソコンやたくさんのファイルを持ち込んだ。免疫グロブリン療法(IVIG)が始まり、1日5時間の点滴を5日間連続投与された。入院中、点滴が始まると、5日の間は腕に針を入れたままにする。その日の点滴が終わると、スタンドにぶら下げされた薬剤の袋からぶら下がっているチューブを、腕に刺さった針から外す。腕に入れてある針は透明のシートで皮膚の上に保護され、5日目の点滴が終わるまで皮膚に刺さったままだ。痛みはほとんとないのだが、シャワーの時はそのたびに看護師を呼び、針が刺さっている部分が濡れないようにラップのようなものでグルグルと包んでもらわねばならず、面倒だった。
退院後も、このIVIGの点滴は通院という形で続くのだが、血液製剤の投与ということで毎回毎回、医師と同意書が交わされた。私は、以前は自身も行っていた献血という協力行為がこうした医療の現場においていかに重要であるかを、恥ずかしながら初めて、そして心から実感した。これ以降、娘や息子も積極的に献血をしてくれるようになった。
この頃、私の足は左足優位に運動神経障害が進行していた。私は日常的に杖をつくようになっていた。右手には、登山の折に使っていたLEKIのストックに「ヘルプマーク」を付けたものを持ち、左手にはタイヤのついたスーツケースのようなカートに荷物を入れて少し体重を預け、体のバランスを支えるようにして歩いていた。足はみるみる細くなり、おしりといえば情けないくらいペッタンコになった。いつのまにか私の体重は、入院前と比較して3、4キロほど減っていた。
ー「あるALS患者の記録③【2017-2018】」へ続く
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