あるALS患者の記録③【2017-2018】


【2017年】


この頃は 約2か月おきに1クール(5日間)の、大学病院への通院によるIVIG療法を定期的に受けながら、時折、筋電図や血液などの検査を行うというようなペースで時間が過ぎていた。私の足は左右両方とも少しずつ動きづらさが増していたが、杖とカートに頼り何とか街を歩いた。仕事も私生活も忙しかった。この頃の私はまだ、「<シェーグレン症候群>だが運動神経障害が進行している珍しい患者」として生きていた。主治医は私のことを学会で報告した。過去の事例を調べても、<シェーグレン症候群>でありながら運動神経障害がここまで進行した例は日本に片手ほどの数しかなく、そのうち半数は寛解し、残り半数は所謂寝たきりの状態ということだった。私は「5割か」と思った。


10月には三度目の入院をした。筋電図などいつもの検査が続いて、診断も特に変わらないままだった。

2週間ほどの入院中にあった大きな出来事と言えば、通信制大学への編入を決めたことだ。もう25年以上も前、短大を卒業し働いていた頃。意気込んで編入したのはいいものの、仕事と子育ての忙しさを言い訳に学び続けることを途中で諦めてしまった大学だった。私はこれから徐々に動けなくなっていく自分を想像し、最後にもう一度、勉強してみたいと思った。身体の運動機能を徐々に奪われていく私に残された唯一の自由な場所は、私自身の頭の中だけだと考えたのだった。私はその場所を、より豊かで確かなものにしたいと思った。大学に再度の編入学が可能かどうかを問い合わせるため、氏名と25年前の住所、所属していたコースなどを書いたメールを送った。大学からは、学籍番号が残っているとの返事をもらい、私は来春からの再入学のための準備を始めた。


退院後も、通院によるIVIGの点滴、検査が続いた。

この年の10月、身体障害者手帳を取得した(障害等級6級・2種。翌年、等級見直しのため更新)。



【2018年】


この年の初め頃、私は遠出の外出をする際には車椅子が必要になっていた。右手に杖、左手にカート、左足首にはオルトップという装具をはめて何とか出歩くことも可能だったが、もうあまり力が無いのと転倒の危険があるために、歩く範囲はごく近所に限られた。私は自分の体のサイズに合った手動の車椅子を発注した。


6月上旬のある日。私はその日の深夜まで、居酒屋で知り合い達とお酒を飲んでいた。もうとっくに日付をまたいだ時間になっていて、短い距離をタクシーで帰宅した。洗面台へ向かい、いつものように顔を洗おうとすると、右手の小指だけが思うように動かない。勝手にピンと伸びて、どうしても薬指から離れてしまうために水道の蛇口から出る水を掬おうとしても指の間から零れ落ちてしまうのだった。私は、運動神経の障害が、手にまで及んでいることを知った。少し酔っているからとか、深夜でもう疲れているからだとか言って自分を誤魔化してみても、もうそんなことでは逃げられないと思った。私はこのときから、自分のこれからの時間について、少しずつ何かを理解し始めた。


8月。四度目の入院。今回も2週間の予定だという。この時は入院する前から、ある覚悟があった。針筋電図や神経伝導速度検査などの結果で、私の障害は上位運動ニューロンにまで及んでいることがわかり始めていた。これは私にとって、恐れていた最悪の事態だった。私はIVIGではなく、ラジカットという薬剤の点滴をすることになった。これは筋萎縮性側索硬化症(ALS)に効果があるといわれる薬で、私は主治医から、ALSであることを告げられた。


診断を聞いた瞬間、探していたものがやっと見つかったような、気持ちがストンと納まったような、落ち着いた、不思議な感情が湧いた。

ーほらやっぱり。そうだったでしょう?


私は主治医に詳しい説明を求め、家族と共に病院の一室に呼ばれた。

ALSは全身の運動神経が障害されていく難病だ。日本における患者数は約6,000人とも7,000人とも言われている。最終的には全身の筋肉が動かなくなり自発呼吸もできなくなって、遠くない未来に死んでしまうという。気管切開をし、人工呼吸器を装着すれば呼吸は保たれて生き続けることができるが、一度着けてしまった人工呼吸器は、家族はもちろん本人の意志をもっても取り外すことができない。いつどこで呼吸障害によって倒れ、意識のないまま病院に運び込まれるかわからないので、人工呼吸器を装着して生き続けるか、生きずに死ぬことを選択するか、早いうちに本人が決めておけという。淡々と、極めて事務的に医師から告げられて、私は自分だけが、みんながいるその病室からぺらぺらの紙のように切り取られ、宙に浮いていくような気がした。


気のせいでしかないはずなのに、医師の言葉を聞いたその瞬間から、私は何だか息が苦しいような気がした。私は病室に戻ってテレビをつけ、スマホのゲームに没頭した。その日の夜のシャワー室で私は、あたたかなシャワーの水滴でおぼれてしまいそうだった。退院の日、駐車場で泣いた。


ラジカットという薬剤を点滴投与し続けても、ALSという病気は治らない。せめて少しでもその悪くなっていくスピードを遅くさせるための薬、ということになる。ALSを治せる薬も治療法も、現時点では存在しない。ラジカットは毎日1時間の点滴を10日間連続で投与する。その10日間も、2週の間に10日間の点滴をすればよく、また1クール10日間を終え、また次のクールまでの間は最低2週間の間隔を置かねばならない。つまり、おおよそ1か月の間に1クールの点滴があるようなペースだ。


私はこの入院から今までの約2年間、ずっとこのラジカットによる治療を続けている。ただし、毎回のこの点滴治療は大学病院の外来へ通って受けることはできないそうで(入院すれば可能)、私はこのラジカットの点滴を、2016年に大学病院への紹介状を書いてくれた、近所の神経内科のクリニックにお願いすることにした。クリニックでは快く引き受けてくれ、今でも通院を続けている。


ラジカット以外にもう一つ、ALSの「治療薬」と言われているものがある。リルテックという飲み薬だ。治療薬といってもラジカット同様、病気を根本から治したり、その進行を止めたりすることはできないのだが、病気が進むのを遅らせる効果があると言われている。2020年の現時点では、この薬はなんと製造が中止されてしまっているのだが、現在はジェネリックのものを処方してもらうことができる。


10月に身体障害者手帳の等級見直し。障害等級2級・1種として更新。筋委縮性側索硬化症による体幹機能障害(坐位または起立位保持困難)2級、同症による上肢機能障害(両上肢機能の軽度障害)6級。


私はこの年の秋から2020年の現在まで、ALS患者として、何かを諦め、何かを引き受け、何かを失い、何かを得て、何かと闘う日々が続いている。



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書くこと。生きること。:Hiromi's Blog

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