あるALS患者の記録④【2019】


【2019年】


病状は緩やかに進行し続け、外出時には完全に車椅子が必要になった。それまでも遠出をするときには必ず車椅子で出かけていたのだが、ごく近所への外出などにはまだ杖を併用するような状態が続いていた。それが2019年に入る頃には、屋外での移動には完全に車椅子が必要になった。手動の車椅子では傾斜のある道での移動に限界があり、私の手や腕の力ももう以前のようではなくなってきていて、日常的には特に毎回のラジカットへの通院に支障が出てきた。当初は介護保険制度を利用してヘルパーを依頼し車椅子を押してもらっていたのだが、制度の使い勝手の問題などから、8月には電動車椅子を導入することにした。


電動車椅子の操作は極めて直観的で簡単なものだ。私の場合、車椅子の右肘置き前方についたレバーを、親指と人差し指の間でごく軽く押して動きたい向きへと操作する。するとモーターによって車輪が駆動し、前後左右、自在に車椅子が動く。軽く繊細に倒せばゆっくりと少しだけ動き、強く倒せば速く一気に動く。電動車椅子の導入が私の日々の生活にもたらしたものは想像を遥かに超えるものだった。電動車椅子により、私の自由は大いに拡大した。


初夏の頃から、訪問リハビリを受け始めることにした。これは当時のケアマネージャーさんの勧めで、週1回1時間、主にストレッチや筋肉の軽い運動、補助をしてもらいながらの歩行訓練などがそのメニューだ。リハビリの先生の明るい声掛けと、頼もしく介助してもらいながらの合理的で確かな運動の時間に、私は、自分のことを直接的かつ積極的に生かそうとしてくれる医療的行為に初めて接した気がして、とても嬉しく心強く感じた。1年が過ぎた今でも毎回のリハビリの時間を楽しみにしている。


この年の入院は7月中旬。筋電図やMRIなどの検査のほか、呼吸器の検査も行った。これは正常値が認められて、ひとまずホッとした。握力は右17キロ、左22キロ。隣の病棟へ行くには車椅子が必要だが、病室と同じフロアを歩き回るくらいなら、ギリギリ杖でもなんとかなった。2016年以降5回目となる入院で、もう何度も行ってきたような検査ばかりだったが、この入院ではとにかく気持ちが滅入って仕方がなかった。


私自身に何か大きな出来事があったという訳ではなく、病室にパソコンやテキストを持ち込んで、いつも通り大学の試験勉強などしながら過ごしていたのだが、自分がもうじき死ぬ病気であるという事実よりも、病人としてこの社会で生きていくことに失望し始めていた。それは例えば社会制度や障害のある体で生きることの不自由さなどに向いたものではなく、人間という存在そのものに向いた不信であり失望だった。この社会は、利己的で薄っぺらで真実を大事にしない人間だらけの、生きていても価値のない場所に思えた。仮に私が、人工呼吸器を装着して生き続けることを選択した場合、自分はそのような体になりながら、こんな誠実でない人間ばかりの、おままごとみたいな社会で生き続ける意味が果たしてあるのだろうか。こんな“世界”、しがみつくほどの価値なんてない。幸い、我が生はさほどこの世に求められているものでもない。もっと生きたいなどと未練がましく考えたりせずに、その先にさも何か希望的なものでもあるかのような勘違いなど早く放り捨てて、さっさと死を選択すべきではないかと、苦しんだ。

(この思いは今でも私の中に日々ポトポトと溜まり続け、私自身、除去しようというつもりもないままにもはやコンクリートのように分厚く固い澱となってそこに在り続けている。それでも消しきれない生への執着と世界への甘えについては、往生際の悪い言い訳か泣き言かのようなくだらなくみっともないものとして私自身を悩まし続け、それでも生きるとは不格好で理不尽なことだなどと言い訳したりして、きっと最期まで“人間”らしく、私はぐずぐずと、こうしているのだと思う。)


退院後、今までにない気持ちの落ち込みがあった私は、思い立って生涯初めてになる心療内科を受診した。心療内科の医師は、病気で不安なのは当然のことであり精神的な病気ではないとして、いったい今日は何しにここへ来たのだと私に言った。薬の処方やカウンセリングなどの治療行為も一切されなかった。私は、何か少しでも気持ちが楽になる薬のようなものでも出してもらえるのではと安易に考えていたので、医師からの素っ気なくはねつけられるような言葉に、少し驚きがっかりした。結果、私はこの時以降、自分を救えるのは自分だけなのだと、強く思えるようになった。


この年の前期をもって必要単位を修得し終わり、私は2018年春に再度編入学した大学を卒業した。秋には大学院を受験し、一次、二次試験ともに合格した。受験勉強も入試当日も、とにかく私はペンを持ち、ノートや解答用紙に向かって書きに書いた。この頃はペンを持つことも、大量かつ思うように文字を書くこともそれほど苦ではなかった。重いものを持ち上げようとしたり、指先を使ったりする作業にも苦手な動作はあったが、手の動きが悪くて日常的に困ることはそこまで多くなかった。


寒さが本格的になる頃、私の手は思うように動かなくなっていった。薬を指先で押し出して取り出そうとしても、指先に力が入らず全く上手くいかない。バッグや洋服のファスナーも、指先で摘まむ動作ができずに苦労した。電気式のカイロを使うなどして常に手を温めることを心掛けたが、体の芯から冷えるような寒さには対抗し得るものではなく、こんなに簡単なことも出来なくなったかと、毎日泣きたくなるような思いだった。この頃は、出来なくなってしまった動作をうなだれながら拾い集め、病気の進行を確かめつつ過ごすような日々だった。



ー「あるALS患者の記録⑤【-2020.9】」へ続く



書くこと。生きること。:Hiromi's Blog

書くこと。学び、考えること。難病ALSに罹患し、世界や自分のあり様を疑う戦慄の時間。生きた証として書いていきます。 satohiromi.amebaownd.com/