もうひとつの世界
―「障害の有無に関わらず共に遊べるキッズパークがオープン」
ああ、まただ。
このニュースがもし、「ユニバーサルデザインの公園がオープン」というものであったなら、私はさほどの引っかかりを持たず、「へえ、そうなんだ」と、特段の違和感を覚えないまま、このニュースを記憶の向こうへと流してしまったと思います。だってそれは、単なる客観的事実だから。
でも「障害の有無に関わらず」と語られる瞬間、いつもの苛立ちがニョキニョキと芽を出すのです。それはそこに、恩恵的なものを、恩着せがましさを感じてしまうから。
日ごろ、結構な頻度で感じ取ってしまう、この類の不調和の輪郭をどうしてもハッキリさせたい。この際キチンと、このモヤモヤとした気色悪さの正体を言葉にしなければならない。そう私は、考えました。
そして、私は頭の中でこの違和感の石コロをコロコロと転がし続け、考え続けた末に、一つの結論を持ちました。それは、<もうひとつの世界>をまったく見ていない、オルタナティブを持っていないその感じが、きっと私を苛立たせているのだろう、というものでした。今いる世界を<当たり前の世界>と無前提に信じて疑わないその怠惰が、思考停止が、私にとっての違和感、モヤモヤと気色の悪い石コロを生み出してしまうものの正体なのだろうと考えたのです。
例えば、車椅子の私が電車に乗ろうとします。
有人改札で駅員さんに行き先を告げ、乗車券や障害者手帳などを提示して改札を入ります。電車にスロープをかけたりホームでのアナウンスをしたりといった対応をする職員の手配や、下車駅への連絡等を駅員さんがしている間、私は指示された場所、例えば改札を入ったすぐの所やエレベーターの前、ホームの上などで駅員さんが来るのをじっと待ちます。駅員さんが到着し待ち合わせが済むと、一緒にホーム上の乗車位置へ移動します。これは位置を指定される場合も、私の希望を受け入れてくれる場合もあります。乗車する位置が決まると、駅員さんは改めて下車駅へと連絡します。そして駅員さんと一緒に、ホーム上で「私が乗ってもいい電車」が来るのを待ちます。これは路線にもよりますが、私の住む町の地下鉄などでは、必ず1本は来た電車を見送ることになります。ちなみに一番酷かった時などは、JRの駅のホームで30分近く待たされた経験もあります。
「私が乗ってもいい電車」が到着すると、駅員さんにホームからドアへとスロープを掛けてもらい、私はやっと電車に乗れます。下車する駅では、その駅の駅員さんが待っていてくれて、スロープで下車の対応をしてくれます。
やれやれやっと着いた、と、ここで気を抜いてはいけません。やっと見つけた、ホームに一つしかないエレベーターの前で、私はスーツケースやベビーカーの大行列の後ろに並ぶことになります。乗れるエレベーターが来るのをじっと待ち続け、やっとの思いでコンコースに出ると、そこは危険地帯。スマホに釘付けで前を見ていない人たちが次々と躊躇なく自分に突っ込んでくるのを避けながら、私は地上への出口が限定されている車椅子の動線をウロウロと探し回ることになります。
―書いていて疲れました。
ただの電車の利用が、なんでこんなにストレスなのかと、私は毎回感じます。
それでも、友人などからよく言われるのです。「最近は車椅子で乗車できるようになって、本当によくなったよね!」って。
―ん???? いやいや、私はまだまだ不満なんですけれど。なんでそんなに恩着せがましいこと言うの?
私は、車椅子でない人と同じように、同じような快適さで、電車を利用したい。車椅子だからといって30分も余計に時間を見込んで家を出なくてもいいように、駅のエレベーターの点検日や出られる改札の位置まで事前にネットで調べなくても済むように、駅員さんとのやり取りや待ち合わせなんていちいちしなくてもいいように、ホームで何本も電車を見送らずに乗りたい電車にスムーズに乗れるように、なってほしい。車椅子でない人と同じように、快適に、安全に。だって、車椅子でない人にとっては、それが<当たり前の世界>なんでしょう?逆になぜ、車椅子だけが「待たされて当たり前」なのでしょう?
私は、私にとっての<もうひとつの世界>が、早く実現してほしい。なぜなら私にとっては、それが<当たり前の世界>だからです。
でも私に向かっていつも放たれる、「車椅子の人も乗れるようになってよかったね」という言葉の向こうには、<もうひとつの世界>を見ていない人の、今の世界を当然のものとしている人の、無前提が、思考停止が、ドデンと山のように、怠惰に横たわっているのを感じてしまうのです。
車椅子の人は乗れなくても仕方がないよね―そんな風に思っているから、乗車できたというだけで「駅員さんにやってもらえて、よくなったね。有り難いね」なんていう話になるのです。そりゃ、以前に比べたら格段によいのでしょう。でも、<もうひとつの世界>を見ていたら、今を<こんなはずしゃない世界>だと考えていたら、このような恩着せがましい発言にはならないと思うのです。格段によくなった、という評価と同等の大きさで、まだまだ足りない、という評価があってもよいのではないでしょうか。
<もうひとつの世界>を見ていない。だから「あなたたちみたいな障害者にとって、以前よりも少しはマシな社会にしてあげたの。有り難いでしょ?」って、言われてしまう。そして我々はいつまでも、「有り難い、有り難い」って感謝し続けることを求められて、「こんなに面倒をかけてばかりいて、もしかしたら私たちはいるべきでない、迷惑な存在なのかしら?」なんて、まんまと思わされてしまうのです。でも、絶対にそうじゃない。今いる世界は、<こんなはずじゃない世界>だという前提に立てば、まだまだ、まだまだなんです。
「いつまでも<こんなはずじゃない世界>でごめんね。令和になっても、まだまだこんな程度の世界で本当にごめんね」とは、誰も言ってくれない。それどころか、「あなた達みたいな少数者にまで配慮して、こんなに面倒くさいことにまで対応して、私たち、優しくないですか?有り難いと思いません?ねえ、私たちの社会って、素晴らしくないですか?」なんて恩着せがましいトーンで語られてしまう。
それは、<もうひとつの世界>を見ようとしていないからだと思うのです。
奴隷制度があった時代。女性に投票権が無かった時代。言論の自由が保障されなかった時代。そんな時代において、それらは考える余地もない、当たり前のことだったのでしょう。でも今の私たちにとってそれは<とんでもない世界>です。変わるんです。ガラッと。
「もう奴隷っていう訳じゃないんだからさ、黒人が少し差別されるくらいのことは受け入れなよ」なんて、そんなのおかしいじゃないですか。<とんでもない世界>と比較して、それよりはマシだと言って今を無前提に肯定してしまうのはおかしい。<もうひとつの世界>は、もっと先にあるはずです。
真面目に働いたら来月の家賃を心配しなくても生きていける社会。女性であることを理由に昇進差別を受けない社会。親の収入による教育格差が生まれない社会。待機や抽選無しに預けたい保育園に子どもを預けられる社会。貧困を自己責任と言われない社会。難病だからといって生きることを諦めなくていい社会。
今ある世界は、当たり前じゃない。
<もうひとつの世界>を、持つべきオルタナティブを、そして<理想の社会>を、私は諦めない。
0コメント