言葉



そういえば木内は、文字を習い始めた時に誓った被害者遺族への詫び状と遺書は、最後まで書くことが出来なかった。世の中には立派な難しい言葉が沢山あるというのに、自分の気持ちにぴったり合う言葉が見つからない、とよくぼやいていた。

―堀川惠子『教誨師』



木内という死刑囚は、強姦殺人という凶悪な罪を犯し死刑判決を受けた男だ。農家の末っ子に生まれた彼は気の弱い苛められっ子で、学校の成績が悪く中学に入ってもひらがなさえろくに書けなかった。そんな“出来の悪い息子”であった彼は父親の暴力に怯えながら育ち、大人になり酒をおぼえて、荒んだ生活の果てに強姦目的で襲った女を殺してしまう。

教誨師・渡辺普相住職に教誨を受けた木内は、渡辺氏から、文字を学んでみないかと声を掛けられる。「大きな体を揺らすようにして、子どものように嬉しそうに頷いた」木内は、渡辺氏から教誨のたびに、ひらがな、カタカナと少しずつ文字を教わった。読み書きが出来ないコンプレックスを抱え続け死刑囚になってしまった男は、獄中で初めて、小学一年生の教科書を使い彼に差し向かいで文字を教えようとする者に出会った。読み書きを学び始めた木内は、ひらがなを使って家族へ手紙を書き、短歌を詠むまでになったという。

しかし死刑囚は、被害者遺族への詫び状と遺書を、執行の日まで終ぞ書くことは出来なかった。書きたいのに書けない。「自分の気持ちにぴったり合う言葉が見つからない」というのだ。死刑囚が、拘置所で教誨師と結んだ「書く」という誓い。書くことを誓ったはずの詫び状が、遺書が、それでも書けないという彼の心の内を思う。「立派な難しい言葉」に彼が抱く憧憬と、読み書きが出来ないことで彼の受けてきたまなざしを、想像しながら。


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死を隣に生きて、私は読むことと書くことに残り僅かな時間と希望を繋ぎ、辛うじて狂わずに生きているといえる。好きな作家の文章を目でたどりながら、こんなにも豊かに、自在に言葉が使えたならばどんなに素晴らしいだろうかと、いつも思う。50年近くも生きてきたはずの自分の中にほんの僅かの貧弱な言葉しか持たないことに、そして、もうすぐ死ぬ病気に罹っているという現実の前に、どれだけ渇望したとしてもそれを手に入れる時間などおよそ望み得ないことに、愕然とする。


私が文章を書く際に自分に確認することはいろいろあるが、最も大事にすることは、文章を書いたその時点において、その文章が、自分にも他者に対しても嘘をついていないかどうか、ということだ。確かに自分はそう考えているのか、そう見えているのか、そう信じているのか、そして、そう言いたいのか。嘘とわかっていながら文章を綴るとき、それは他者の目を気にして体裁を飾り、自分を取り繕い、何かを誤魔化そうと目論むときだ。何のためか。自分にとっての本当を否定し、読み手という世間の“正しさ”に迎合してまで、私は何を守ろうとするのか。本当の自分を自ら否定し、私は何者になりたいのか。もう死のうというのに、嘘をついてまで私が手に入れたいものとは何なのか。


自分の書く文章の前に、嘘つきとして死んでいくのはまっぴらごめんだ。私には、一度書き残してしまった自分の“嘘”を反省し訂正するやり直しの時間は残されていないし、そんな文章が自分の死後も残ってしまったとしたら悔いでしかない。では、自分を嘘つきだと思わなくて済む文章を書くにはどうしたらいいのだろうか。


心構え、という点において、私は自分をある程度信じ、また楽観している。死の谷を背後にして人間関係にやけっぱちになっているという訳ではないが、今更決定的な嘘をついてまで取り繕い、維持したい関係性はほとんど多くないし、自分自身に対する世間的な承認も評価も、飢えた子どもを言いくるめてまんまと騙し取った饅頭のように、そんなものを求めている自分自身を軽蔑し嫌悪するだけだ。


しかし、そのための技術、となると話は別だ。私は、言葉を知らず自分にとって最も適切な表現を諦めるとき、自分が嘘つきになる恐怖を覚える。そんなの、本当に書きたい言葉がきっとどこかにあると知りながら、代替の、偽物の言葉でしか書き表せずしかもそれを“本当に書きたいこと”だと自分に言い張っているだけではないかと、自分自身に心底幻滅する。私は、それが結果的に“嘘”となってしまっただけだと、こうするしかなかったのだと言い訳する自分を許さない。ごちゃごちゃと何を言い繕ってみても、そこに書かれてしまった言葉は“本物でない”という点で一緒であるし、私は私の人生において、獲得すべき言葉を手に入れてこなかった自分の怠惰を知っているからだ。


思うままに扱える言葉があれば私は嘘つきにならずに済むのではないか。私はもしかしたら、まだ書いてはいけないのではないか。いや、それじゃあ私が現世で書ける文章などひとつも無いではないか。私は、豊かに言葉を持つ私の敬愛する作家たちに、手の届かないところに確かにあるはずの、自分の頭の中にあるものをきっと適切に言い表してくれるだろう言葉たちに、深い憧れを持つ。「世の中には立派な難しい言葉が沢山あるというのに」自分にはまるで備わっていない、と。



死刑執行の、その日を予感した木内死刑囚が渡辺氏に言った言葉がある。『教誨師』というノンフィクションに、私が心に深く感じたものは多くあって、そんな自分の感想もいつか書いてみたいと思いながら書けずにいるのだが(これも私の中に言葉がないのが理由だ)、私自身、不治の難病の身体に点滴を受けながら読み涙が止まらなかった木内死刑囚の言葉の一節を、最後に引きたい。


―「先生? 私の身体で手術の練習をした若いお医者様が、将来、誰か病気の人の命を救ったとしたら、私も人の役に立ったということになりますか? 私の目が誰かに使われて、その人が幸せになったら、私の罪は少しでも許されますか?」



書くこと。生きること。:Hiromi's Blog

書くこと。学び、考えること。難病ALSに罹患し、世界や自分のあり様を疑う戦慄の時間。生きた証として書いていきます。 satohiromi.amebaownd.com/